2011年11月28日

スローフードとは何だったのか?(2)

美味しい喜びを大事に、食から世界を変える!(2)カルロペトリーニ会長.jpg▲スローフード協会会長のカルロ・ペトリーニ氏(photo/Alberto Peroli)。

2000
年前後、イタリアから風のように日本にやってきて一時はメディアを席巻するも、いつの間にか風のように収束してしまったスローフード。

日本の食、農業、環境、ライフスタイルにさまざまな影響を与えながらも、日本国内ではその深い哲学までは理解が進まず、上辺をさらって消えてしまった感がある。

スローフードとはいったい何だったのだろうか?

第1回に引き続き、イタリアでスローフードが生まれた経緯、創始者たちの思いや運動のモチベーションとその背景などを石田さんに伺いつつ、この世界最大規模の食の運動の本当の姿を追っていく
(聞き手、構成/永田麻美)

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――前回、スローフード協会は革新的な人たちによってつくられたのだということでしたが。

この運動が始まった時、携わっている人たちは強面のコミュニストばかりでした。イタリアのコミュニストは、日本やアメリカのそれとは全く違います。特に日本では、コミュニストイコール犯罪者みたいな捉え方をされていますが、イタリアでは文化的な人たちであるという理解です。現在のスローフードの面々は、政治的に偏っておらず、右も左も、保守も革新も一緒にやっています。
コミュニストたちの「アルチ」(ARCI=Associazione Ricreativa Culturale Italiana)という余暇組合があります。フラワーアレンジメント、ビリヤード、登山などの趣味のグループごとにアルチがあるんですが、その中にアルチゴーラ(Arcigola)というのがありました。ゴーラとは喉のことで、食いしん坊の意味。食いしん坊のアルチです。このグルメ団体をつくったのがスローフード協会の創始者の1人で現会長のカルロ・ペトリーニです。これが、スローフード協会の母体になっています。

スローフードが生まれたのは、1986年。ちょうどローマのスペイン広場にマクドナルドができると、全国紙のラ・レプブリカがリークしたことからイタリア中、大騒ぎになった時です。「僕らはマクドナルドなんか食べない」、「僕らはパニーニを守るんだ」と、食の愛好家たちがスペイン広場で毎日お昼にシュプレッヒコールを上げ、彼らがトマトソースのスパゲティを炊き出して配るというのが続きました。でも、残念ながら、マクドナルドはできてしまった。できてしまったどころか、世界で最も売り上げを上げたマクドナルドになったんです(笑)。

その同じ年に、例のワインセラーのパーティで「僕らは何をやろうか?」と話が出たんです。実は食の運動をやりたいと思っていたけれど、フランスのようにマクドナルドを打ち壊しに行くような格好悪いことはしたくない。そこで、ファストフードの反対のスローフードをやろうと。わざわざ英語で名前を付けたんです。


――では、ファストフードに対抗する意味合いはあったんですね。

ありました。ただ、ファストフードに反対する団体としては発足していません。あくまで言葉遊びでつけたネーミングです。発足当初、世界中がスローフード=ハンバーガー反対運動だと思ったのは事実です。1989年にパリのオペラコミックでマニフェスト調印式をしたんですが、ニューヨーク・タイムズには、「イタリアよりハンバーガーに対抗する運動現わる」みたいに書かれました。


――逆にそう書かれても関係ない、そんなことはあまり気にもとめなかった......。

そうです。スローフード協会の創始者たちはもっと高いところに飛びたいと思っていましたから。そのうちに、食の矛盾や偽装はピエモンテだけの問題ではないことを具体的に見てしまい、どんなアクションができるんだろうと真剣に考えるわけです。彼らは片田舎に住んではいても、世界中の知識人たちとのネットワークを持っていたので、89年の会合時には、スローフードの船出を祝おうと、パリに世界中からジャーナリストや食の関係者が大勢やってきました。

(2)ガイド中の石田さん.jpg
▲欧州中の王侯貴族に美術品の話をするチューターの役割をしてきた200年の歴史あるフィレンツェ市公認ガイドの資格も持つ石田さん。98年に外国人にも開放され、5人受かった日本人のうちの最年少(30歳)取得者(photo/石田雅芳)。


――なぜ、フランスのパリで調印式を?

ヨーロッパ人にとって、食べ物はやはり「パリ」なんです。また、パリというのは西洋の近代主義が始まった場所。1900年代の初め、イタリアでは「未来派」運動が流行っていました。「フトゥリスタ」という近代文明を賞賛する人たちは、古典芸能とか手垢の付いた物が嫌いでした。未来派運動は、我々が享受してきた機械文明や効率主義。いわば20世紀をかたちづくったものです。それを標榜した人たちが、パリでスローフードのマニフェストに調印した。僕らの社会はどうしてこんなにつまんなくなっちゃったんだろうと。

20世紀の終わり、みんながもがいていました。ポストモダニズムと称して変てこな建築物を造るなど、モダニズムから逃れることが前世紀の闘いでした。いろいろな人たちが近代文明に対するアンチテーゼを出しましたが、よくわからなかった。でも、スローフードが提示したことはものすごく明確でわかりやすかったんです。
「今の社会の矛盾の元凶は何なんだろう? スピードだ。だから僕らはゆっくり人生を楽しみたい。それによって、人類が培ってきた喜ばしい物、美味しいもの、心地良い物をみんなで守り抜く努力をしようよ」と。

イタリア語で「ディリット・アル・ピアチェーレ(diritto al piacere)」という言葉があります。ディリットは権利、ピアチェーレは喜び。「喜びの権利」です。つまり、美味しいものを食べたり、嬉しくなったり、楽しくなったりすることは、宗教的罪、享楽には当たらないと。喜びを享受するのは僕らの人類としての権利であると言い始めるわけです。そうしないと、「グルメのコミュニスト」とみんなにいじめられますから(笑)。理論付けですよ。それがいつしか、世界的に人々に受け入れられていきます。実はみんながそう思っていたからなんです。僕らが追従してきた社会の何もかもが正しいように思っていたけれども、何もかも正しくないような気もする。その心の叫びを表現できなかったのが20世紀の人類の課題だった。それに形を与えたのがスローフードの成功だったのだろうと思います。

(2)生産者を訪ねるスローフード関係者.jpg
▲スローフード基金会長ピエロ・サルドがセネガルの生産者を訪問している様子(photo/Archivio Slow Food)。


――しかし、このアプローチは日本では難しいですよね。

そうなんです。日本では「そんな不味いもの食べていいの?」と言ったとたんに、「食べ物を粗末にするな!」と怒られてしまう。宗教的な、倫理的な問題にすり替えられてしまうんです。そうではなく、食べ物を食べた時に感じる、自発的な感情をもっと大切にしたい。スローフードの創始者たちは、それこそが世界を救うと確信していました。美味しいものを食べることによって世直しをしたかったんです。

美味しいものを食べるために適正な価格を払う努力をしようと考える時、1円安い大根を買いに隣の町へ行くお母さんは正しいのか? 持続性のあるシステムの中で自分たちが美味しいものを食べ続けたいと思ったら、そんな行動はできない。つまりは食に関する、みんなで考える、新しい道徳なんです。美味しいものを食べることによって、みんなを幸せに、持続的に暮らせる社会を作りたいというのがスローフードの願いなんです。

なぜ、持続性のある社会をつくらなければならないのか? 人間以外の生き物たちは皆それをやっているからです。
植物も動物も、環境に順応していく時には、自分が最も心地良いところを目指していきます。自分が心地良くなる場所に行くし、心地良くなる食べ物を食べるし、全て感覚的な部分に従って動く。人間はそれがなかなかできない。スローフードが言っている、「自分の喜びに従え」、「自分の喜びを守れ」、「美味しいものを食べるように努力しろ」というのは、もっと本能的な非常に深い話なんです。
人が何か行動を起こすときには、喜びを持ってしなければ、持続性のあるものにはならないと思います。

東日本大震災関連のテレビニュースで、津波で瓦礫だらけになった気仙沼の丘の上にソメイヨシノが咲き始めているのを見た時、僕が感じたのは「ああ、きれいだな」ではありませんでした。「君(ソメイヨシノ)とこの災害、人間社会は関係ないんだね」と思ったんです。彼は、自身が持続的な生態系を持ち、たった1人でそこで咲き続ける能力を持っている。
一方で人間はものすごい努力をしてこの地表に存在することを許されている、生存に成功している。そのことが今回の震災でわかったわけです。だから、僕らが心地良く地表で長く暮らせるためにはどうしたらいいかを、今、考えるべきなんです。
(3)に続く

石田雅芳(いしだ・まさよし)
1967 年福島市生まれ。同志社大学文学部美学芸術学専攻、1994年よりロータリー財団奨学生としてフィレンツェ大学に留学。1998年よりフィレンツェ 市公認美術解説員、その後日本のメディアの現地コー ディネーター、イラストレーターなどを経て、2001年より2007年に帰国するまでスローフード国際協会の日本担当官。現在スローフード・ジャパン副会長。