2011年11月28日

スローフードとは何だったのか?(3)

スローフードという黒船(3)ジャコモモヨーリ氏.jpg▲帯広市で行われたスローフード・ジャパンの国内大会で(2005年2月)。中央がジャコモ・モヨーリ氏。左はカルロ・ペトリーニ会長、右が石田さん(photo/スローフード帯広)。

2001年のイタリア年、日本中がイタリアブームに沸いた。
トレンドに敏感な人々がいち早く日本にスローフード協会の支部(コンヴィヴィウム)を開設。
その結果、複数の支部が各々スローフードを主張し活動。その構造がわかりにくかったため、結局のところ「スローフード」とは何なのかわからないままにブームが消え去った感がある。

あれほど熱狂的に迎えられたスローフードが、日本に定着しなかった要因はどこにあるのか?
第3回は、スローフードは日本にどのように入ってきて、どのように受け止められたのかを、スローフードジャパン副会長の石田雅芳さんと丁寧にひも解いていく
(聞き手、構成/永田麻美)

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――スローフードが日本のメディアに流れるようになったのは2000年前後ですが、実際はそれより前、80年代の終わりあたりから日本の中でスローフードの活動をしている人たちがいたとか。

はい。現在の「東京スローフード」という支部です。会長の馬場裕(ゆたか)さんは、イタリアの食を知り尽くした大変な権威ですが、恐らく日本で最初にスローフードを始められた方です。
1992年は、コロンブスのアメリカ大陸発見500周年を記念して、イタリアでは世界中のスローフードの活動家たちに呼びかけてコロンブスがもたらした食べ物を食卓に並べる「コロンブスディナー」が開催されましたが、この時、馬場先生のお声掛けで東京でもいくつものレストランがそれに賛同して「スローフード協会主催のコロンブスディナー」を提供しました。これが日本で行われたスローフードの最初のイベントでしょう。

そして、日本のスローフードの転換点となったのが2001年。「イタリア年」です。あの頃はイタリアの美術品の修復のために日本企業が莫大なお金を拠出するなど日本とイタリアの関係も深く、まだ、バブルの最後の灯が残っていたのかもしれません。現在のイタリア文化会館の会長のウンベルト・ドナーティ氏が「イタリア年ファウンデーション」の責任者として陣頭指揮を執りました。1年間に360以上ものイベントが行われました。

その勢いに乗ったんです、スローフードは。最初に飛び付いたのは、イタリア系食品のインポーター、ワインの専門家、西洋の食べ物を扱うジャーナリストたちでした。


――この頃、島村菜津さんの『スローフードな人生』(新潮社)が出版され、日本に一大スローフードブームが起きました。

その先駆けとなったのが木楽舎の小黒一三編集長です。彼が雑誌『ソトコト』を立ち上げた頃です。そのテーマの1つがスローフードでした。『ソトコト』の創刊号の表紙は真っ赤なバックに金色の逆M字をあしらったものでした。まるで「マクドナルドを征伐する」みたいな感じで、センセーショナルな売り出し方でした。当時が一番、スローフードが国内での露出を獲得した時だったと思います。

ススローフード協会の会長は最後の最後まで、日本にスローフードを持って行くことができるとは思っていなかったようです。言語コミュニケーションの問題です。そこに能力を買われて日本に派遣されたのがスローフード協会の元副会長のジャコモ・モヨーリ氏でした。北イタリアの伝説的な政治活動家であり、スローフード協会の理事組織の中で常に際だつ存在でした。

この時、英語も日本語も話せなかった彼の声役をしていたのが僕です。日本中を駆けめぐって、2人3脚でスローフード協会の思想を伝え、講演会を企画し、さまざまなメディアのインタビューに答えてきました。
そこには、『ソトコト』の圧倒的なバックアップもありました。しかし、後にそのことが『ソトコト』への人々の反感を買ってしまうことにもなりました。
あの当時、『ソトコト』は日本のスローフードを推し進め、意気揚々でした。その反動なのか、一部の会員たちの間で「大ソトコト反対運動」が起こってしまったんです。いろいろな人々の思惑が絡み合った結果でした。スローフード協会の運動の最もデリケートな時期に、貴重な時間を割いて私と共に遠い日本を回ったモヨーリもすっかり非難の矛先となりました。あの鉄の意思を持ったモヨーリが、涙するところを見たのは私だけでしょう。

(3)本部オフィスの様子.jpg
▲スローフード協会本部オフィスの様子(photo/石田雅芳)。


――その後国内オフィス(スローフードジャパン)が立ち上がります。

2000年前後、スローフード協会は各国にオフィスを次々と増やしていきました。しかし、世界中の国内オフィスが経営難に陥っていました。
そんな時にもかかわらず、日本での盛り上がりを受けて日本にもオフィスを開けたいと言う人々が日本にあらわれました。ちょうどタイミングよく、食の安全や健康、スポーツ事業などの新分野を取り込み経営に成功していた宮城県仙台市にある東北福祉大学から、自社ビルの1室をスローフード協会のためにほぼ無償で提供したいとの申し出がありました。

2003年に滋賀県の律院でスローフードの全国会議を開催し、その時にスローフード・ジャパン連絡協議会を立ち上げました。仙台のメンバーを中心に、主に会員管理と信用回復に邁進しました。翌2004年にスローフードジャパンとして正式にスタートしました。

でもこの時に、本部で一連のスキャンダルが起きます。
スローフード協会のロゴが日本人に商標登録されていたことがわかったんです。本部では登録者が誰なのか掴めなかった。名古屋に登録者がいるとの情報で当人に連絡すれば別の人だったり、似たような名前の同じような職業の該当者がでてきたり、ごたごたの中で日々が過ぎていきました。
大騒ぎの末、最終的にはイタリア本部が商標権を買い戻しましたが、5年を要しました。


――日本にはいくつもの支部があります。これらと国内オフィスの関係がわかりにくいのですが。

支部は、イタリア本部が進めるスローフードの考えに賛同し、発起人や設立時の会員数などの条件を満たし本部に承認されれば誰でも開設することができます。
日本にはいま46の支部がありますが、全て本部の下に同列に存在し、支部間に序列関係はありません。
2003年までは本部から直接各支部にコンタクトしていましたが、スローフードジャパンができてからはそれら支部のまとめ役となり、本部と連絡を取る代表窓口となりました。

(3)スローフード本部のスタッフたち.jpg
▲スローフード協会のスタッフたち。みんな若い(photo/石田雅芳)。


――国内オフィスが立ち上がる前は、複数の支部がバラバラに活動して問題はなかったのでしょうか?

ありました。ある支部の中に「孫支部」をつくるところが現れたんです。
この支部はNPOの法人格を取り、「我々が日本のスローフードの中心である」といった名称を付けました。実際に代表者が「日本のスローフード運動の中心人物は自分だ」という主張を始めて、ありとあらゆるメディアに露出し、あっという間に日本中に「孫支部」をつくってしまいました。もちろん、孫支部からお金を吸い上げるという構造になりますから、スローフード協会の評判はものすごく悪くなりました。
孫支部からイタリア本部にコンタクトしてみれば、実は彼らが日本の支部の「中心」ではないことがわかり、なんなんだと。日本の中での信頼がどんどん失われていき、結果的にスローフード叩きのような状況になっていきました。

また、「スローフード協会に払う会費は、イタリアのコミュニストに流れているらしい」という噂も流れました(笑)。というのも、年会費が1万円と高かいにもかかわらず、その金額に見合うだけのものがイタリア本部から何も来なかったからです。

まだ仙台に我々のオフィスができる前は、イタリア本部で全ての会員管理をやっていました。なぜか、日本人会員のデータだけが名前と住所がシャッフルされて壊れてしまったんです。どうやらローマ字入力の日本語フォーマットがいけなかったようです。当時、日本の会員は千人くらい。これに気付いた時は、戦慄しましたね。
そこで、仙台市にスローフードジャパンが開設されてから、大変な苦労をして会員システムを新たに立ち上げ、データを入力し直したという経緯があります。
(4)へ続く

石田雅芳(いしだ・まさよし)
1967年福島市生まれ。同志社大学文学部美学芸術学専攻、1994年よりロータリー財団奨学生としてフィレンツェ大学に留学。1998年よりフィレンツェ 市公認美術解説員、その後日本のメディアの現地コー ディネーター、イラストレーターなどを経て、2001年
より2007年に帰国するまでスローフード国際協会の日本担当官。現在スローフード・ジャパン副会長。