2011年11月28日

スローフードとは何だったのか?(1)

おいしくない、それはなぜ? から始まった運動(1)石田さん.jpg
▲スローフードジャパン副会長の石田雅芳さん(photo/林 泉)。

2000年前後、イタリアから日本にやってきたスローフード。一時は、食、農業、ファッション......あらゆるところにスローフードと名のつくものが溢れていた。
あれから10年が経ち、スローフードはメディアの表舞台から消えた。

あの喧騒はいったい何だったのだろうか? 
風にように日本にやってきて、いつのまにかメディアから消えて行ったスローフードとは何だったのか?

「あの時の日本のブームは表面をさらっただけ」と、スローフード協会イタリア本部唯一の日本人スタッフとして会長通訳を務め、現在スローフードジャパン*副会長の石田雅芳さんは言う。
「イタリアのスローフード協会はとんでもないインテリの集まりで、その運動はとてつもなくすごい」

今回から数回にわたり、当時の日本社会の反応を振り返りつつ、スローフードが伝えたかったものとは何なのか、今や全世界に10万人以上もの会員を有しなお拡大を続ける食の運動の真の意味を、石田さんと共に検証していく(聞き手、構成/永田麻美)。

*スローフード協会の日本での窓口。全国のスローフード協会各支部の国内代表機関。

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――石田さんとスローフードの出会いは?

うちの父は醤油の技術者で大豆の発酵が専門でした。ですから、僕が幼い時いから我が家では食事中に延々と父の有機化学の話を聞かされ、遊びに来た僕の友だちもその犠牲になっていました。だから、食べ物って嫌な仕事だなとずっと思っていたんです。自動車が大好きだった僕は、小学生の頃、母に泣いて訴えました。「大きくなったらフェラーリの国に行く! 醤油屋には絶対ならん!」と(笑)。何とかして全く違う分野をやろうと、大学では美学を専攻し、1994年にイタリアに留学しました。

2007年に帰国するまで、イラストレータや雑誌記者などいろいろな仕事をしました。2000年には日本の「イタリア年」に向けて日本の新聞やテレビでイタリア特集を組む時のコーディネーターもしました。
『ソトコト』を発行している木楽舎の小黒一三さんに出会ったのもその頃です。イタリアのスローフードを取り上げるので一緒にやろうと声をかけられ、スローフード協会が認定したレストランを10日間で20軒取材しました。それが、スローフードの初仕事でした。

その時、スローフード協会の本部に行って理事たちにインタビューしたんですが、これが僕の心に響きまして。非常に良い運動だなと思ったんです。どこの誰ともわからない日本人の前で、スローフード協会の副会長が2時間喋ってくれ、その間、僕は一言も発しませんでした。そして、最後の最後に副会長が「どうだ、わかったか」と。僕は「素晴らしかったです! 次に来る時は、スタッフとしてここで働きますのでよろしくお願いします」と言って帰ったんです(笑)。2001年のことです。

生まれて初めて就職してやろうと思いました。スローフード協会のインタビューを仲介してくれた人たちに、どういう戦略を練ったら協会に入れるかと聞いて、履歴書の書き方とかを教えてもらい、言われた通りに書いてそれを協会まで持って行ってもらったら、入れてくれたんです(笑)。
折しもスローフードが国際運動として羽ばたく瞬間で、日本の会員も増える兆しが見えていました。サローネ・デル・グスト**という世界最大の食品市のプロモーションを初めて日本で行おうとしていたところでもありました。そこで、日本人を仮採用してみようという話になったようです。2001年6月の東京で行われたスローフード協会初のオフィシャルプレゼンテーションでは、僕が日本でアテンドと通訳をしました。

**1996年からスローフード協会がピエモンテ州政府との共催で2年に1回開催している国際規模の食の祭典。近年は、約20万人以上の入場者を集めている。日本の業者向けの見本市と異なり、一般人に広く開放しており、出展も生産者が7割を超える。

(1)ブラ本部のレセプション入口.jpg
▲ブラ本部のグッズショップ入口。カタツムリマークはスローフード協会のシンボルだ(photo/石田雅芳)。


――スローフード協会の何が石田さんの心を捉えたのでしょう?

結構、反骨精神豊かな人たちによって作られた団体だとわかったのです。革新的な、血気盛んな若者たちのオピニオンリーダー的立場にいた人たちが興した運動です。だからあの頃の協会には"世界を変える勢い"が確かにありました。
スローフードの拠点、ピエモンテ州のブラはものすごい田舎町です。トリノのベッドタウンとはいえ、3万人弱ぐらいの小さな町ですが、よく喋り、よく思考し、ヨーロッパの中でも最高レベルの知性を持つ行動する人材が揃っている。イタリアで最初に私設ラジオ局をつくったのがスローフード協会の創始者たちでした。かつて私設放送局が禁止されていた時代に、朝鮮戦争の戦車から持って来た発信機を使ってゲリラ的にラジオ放送局を始めました。2回、機械を押収されています。70年代にはフォークフェスティバルもやっていました。


――そういう人たちが、なぜ食べ物の運動を?

彼らはとんでもないグルメだったんです。協会の理事たちにワインの知識があるのは当たり前です。スローフードという名は、ワイン醸造所の中でみんなでワインを飲みながらパーティをしている時に生まれました。根底にあるのは、「良き物を食べたい」。言い換えれば、快感情、心地良い気持ちを大切にしようということです。よく食・自然・環境運動を行う人は、川や湖を守ろうといったトピックから入りますが、スローフードは何かを守りたいから始まったわけではありません。自分たちが美味しいものを、持続的なシステムの中で未来永劫食べていくことができる環境をつくりたいと思ったんです。(1)パリ調印式.jpg▲1989年のパリのおける調印式の様子。マイクを持ってもって話しているのが若かりし頃のカルロ会長。手前の眼鏡の男性は、スローフード・マニフェストを寄稿した詩人のフォルコ・ポルティナーリ(photp/Archivio Slow Food)。


――それは、具体的には?

たとえばロッカヴェラーノという有名なチーズがあります。ピエモンテではどこにでもあるチーズです。仲間内で食べていた時に、彼らはハタと気が付くわけです。「美味しくないね」、「なんでなんだろう?」と。これまで何年も何年も食べてきているのに、きょう食べたのは違うぞと。そこで、みんなで農場に牛を見に行くんです。すると、すでに農場が無い、作り手であったお爺ちゃん、お婆ちゃんが、あるいはそのミルクを取っていた品種の牛がいなくなっている......。そういう構造的な問題を発見していきます。

同じように、ピエモンテは世界的に有名なピーマンの産地なのですが、ベロナータというピーマン料理を食べた時に、やっぱり「不味いな」と感じて現場を訪ねます。ピエモンテにはピーマンハウスが林立しているんですが、行ってみると、ハウスの中にピーマンはなかった。自分たちの食べているピーマンは、実はオランダから来ているということに気が付くんです。ピーマン畑はチューリップの球根農場に変わっていました。オランダのピーマンを買わされている上に、ピーマン畑でチューリップの球根を育てさせられている。それによって、ピエモンテの一大産業が絶えそうになっていた時代があったんです。(1)ピーマン生産者.jpg▲2010年のサローネ・デル・グスト(食の博覧会)にて、ピエモンテ州の誇り、ピーマンの生産者たち(photo/石田雅芳)。

スローフードを立ち上げた彼らは、不味いものを食わされたので腹を立てて、現場を見に行った。そして、そこで食の矛盾を目の当たりにしたわけです。スローフードは、「おいしくない、それはなぜ?」から始まったアプローチなんです。

ところが、これが日本だと、たとえば偽装表示された松坂牛の肉を食べさせられたといってみんなで叩きます。それは、情報の偽造であり倫理的な問題ですよね。でも、イタリア人にとっては、食はもっと感覚的な問題なんです。「不味いじゃん、何とかしてくれ」と。


――イタリア人のほうが食べ物に対する執着が強いと。

そうです。許せんのですよ、不味いものを食べさせられたことが。松阪牛の偽物を食べさせられたと言って怒る日本人を見たイタリア人はきっと、「それはわからなかったお前が悪い」と言うと思います。
食べ物が本物か偽物かというのは、ラベルの問題ではないはず。ラベルに偽物の名前が書いてあったと、そんなリアリティのない物に怒ることができる日本人の感覚が、イタリア人にはわからない。日本人は、食べ物でなく、そこに付加されている情報を食べているだけなんです。
(2)へ続く

石田雅芳(いしだ・まさよし)
1967年福島市生まれ。同志社大学文学部美学芸術学専攻、1994年よりロータリー財団奨学生としてフィレンツェ大学に留学。1998年よりフィレンツェ 市公認美術解説員、その後日本のメディアの現地コー ディネーター、イラストレーターなどを経て、2001年より2007年に帰国するまでスローフード国際協会の日本担当官。現在スローフード・ジャパン副会長。