2014年7月 1日

地域づくりのための「事業化」はなぜ難しいのか?

きょうから7月。早いものです。
沖縄はもう梅雨明けしたそうですが、関東はこれからが長いのですよね。

以前に、地域づくりと地域活動の違いについて書きましたが(過去記事)、このところ、なぜ、地域づくりが次の一歩へなかなか進めないのか、場当たり的な策を打ち続ける、同じことの繰り返しになってしまうのか......考えてしまいました。

理由はいろいろあります。

1.主体の世代交代
地域活動的なものを世代(主体となる人たちの意識)が変わってもやり続けるということが、難しい。

2.補助金頼り
補助金が続く限り継続するが、カネの切れ目が活動の切れ目...あとはフェードアウト。

3.根本の問題がなおざり、いつも対処療法
その時々の世のトレンドに合わせて課題とおぼしきことに取り組むも、根本の問題に手を付けず、周辺でいろいろなことをやってきた(どれも効果はいま一つ)。

3.について真剣に議論するような場がまずは必要でしょうし、しかし、そこにメスを入れたとしても、1.が起こった時に2.である限り継続は難しい。

で。皆さんおっしゃるのが、「補助金からの脱却」。
だったら、事業化すればいいんだ! と、本当に簡単におっしゃる。
私が痛感しているのが、この「地域づくりのための事業化(ビジネス、起業)の難しさ」、です。

つまり、4番目の理由に、「事業化=ビジネスにできない」ことが挙げられると思うのです。

地域で起業しよう、という話になると、出てくるのが、人材の問題です。
少子高齢化の地域にはただでさえ人材が不足しています。
そこで出てくる主張が、「特定のリーダーに頼っていた『能力』を、組織をつくって分散し、一部誰にでもできる『技能』にして、システムに落とし込めばいい」んだというご意見。
私、これには、かなり違和感があります。いつも疑問に思います。

一見、正論なんですけど、 事業を動かすには、「考えて動く人」が必要です。

組織をつくろうが、1人が負っていた仕事や役割を分散しようが、その小さな"ピース"を任されるのもまた「人」であり、どんな小さな仕事も「なぜそれを行うのか? 何のためにこの仕事が必要なのか?」、を理解して動かさなければ全体が機能しません。工場の生産ラインではありませんから。

ならば、どうすればよいのか?

何よりも、まずは、関わる人たちが事業を興すということの意味を、そして、自らに責任と相当な覚悟が必要であることを理解し、正しく認識できていなければなりません。

事業は投資・実践・回収・投資......の繰り返しで目的達成に向けて動かしていくものです。そのとっかかりを、補助金で枠だけかっこよくつくって、組織図・構成員・事業内容を決めたら、なんだかできたつもりというなんちゃって事業をするからうまくいかない。

なぜならば、事業=ビジネス=商売だからです。

商売を行うことは、常にリスクを伴います。
誰もリスクも責任も負わない状況では、商売はできません。
商売をしていれば、時に失敗したり、売上が回収できなかったり、資金がショートしたり......そうした事態が起きないよう、あるいはそれが起きた時にでもすぐに対処できるリスク管理までを含めた経営が求められます。

つまるところ、地域で第3セクターや株式会社などの会社を興す時、
経営をしたことのない人たちが経営の真似事をするから、うまくいかない(商売できない=事業化できない)
のだと私は思います。

さて、人材の問題です。
その新しい企業(組織)で働く人材を、どのようにして確保すればよいのか?
私は、経営者には、地域内外の、これまでにきちんとした企業なりの経営に携わった、あるいは企業経営の中枢で仕事をしたことのある人を充てるべきだと考えます。地域外から募集する場合は、その分野の経験者ではなく、「経営者」や「経営関連業務」の経験を重視することがポイントだと思います。


この時、その人1人だけが経営のプロで残りは素人、という状況をつくるのではなく、その経営のプロと一緒に、どのような組織であればソフトランディングできるのか、成長していけるのか、という部分から議論し、組織の形態・ありようを決める。

スタート時から、最低限、即戦力として要求される能力と、経験を積む中で育てていくことのできる能力を分ける。後者の能力は、そうした経営のプロの下で「経営とは何か」を学ぶことよって初めて、身につけることができると考えます。彼らが、将来の組織を担う大事な人材になっていきます。

結局、問題は、 まるで「事業化」というカッコイイコトバが解決してくれるかのごとく、その重大性、重要性をきちんと認識しないままに厳しい世界に足を踏み入れてしまうがために、体裁だけを整えて一見立派なスタートに見えたとしても、途中で「こんなハズじゃなかった」と頓挫する......ということになってしまうのではないか。
と、私は思うのです。