2012年12月15日

私が出会ったいちぐう人! Vol.3 異色の米屋、石川さん(1)

千葉県の君津市で1972年から続く米穀店「石川商店」。

社長の石川善雄さんとの付き合いは、もう16年ほどになるだろうか。
石川さんは、30年以上前から有機栽培などの食材を扱ってきた、いわばこだわり食材販売の先駆者。

その石川商店最大のヒット商品が、「福っくら御膳」だ。
白米に混ぜて炊くだけでふっくらモチモチの雑穀ご飯の出来上がり。
今や数多く見かける類似の雑穀商品の中でも「福っくら御膳」が群を抜いているのは、圧倒的なおいしさ。
『通販生活』(カタログハウス)の読者が選ぶ2011年度暮らしの道具ベスト100でも食品部門第2位にランクイン。
米ソムリエの石川さんが100回を超える試作で辿り着いた、厳選国産雑穀13種の黄金比率。
「白米だけよりもおいしい」という、雑穀の概念を覆した画期的食品なのである。

第3回の「私が出合ったいちぐう人」では、類まれな食のセンスを持った石川さんと、彼の食や農業への思いを、これから4回に分けて紹介したい。
石川さんの実践は、米屋という領域にとどまらない。
私たちに現在の暮らしや生き方を、また食べ物や食べることの意味を問いかけてくる。


きっかけをくれたのは、1人のお客さま
相次いだ親族の死。
それが、石川さんをこの道に向かわせたきっかけだった。
昭和53年、23歳の時に父が、56年には叔母、続いて60年に母が逝去。
なぜなんだ?  
特に、父は、普段から健康には気を遣っていたハズだった。
込み上げる悔しさ。同時に、その「血」を受け継ぐ自身の将来への不安が渦巻いた。
考えられる理由は、1つ。「食」だ。
食と健康についてのあらゆる資料や書籍を読み漁り、猛烈に勉強した。

最初に着目したのは、玄米だった。
玄米には、胚芽部分にビタミン、ミネラル、酵素類が豊富に含まれている。玄米を水に浸すと芽が出るが、白米は腐る。玄米が「生きた米」と言われるゆえんである。
「玄米には以前から興味はあったんです。でも、私は米屋でしたから『玄米だけを食べてもまずい』と、笑ってたんです。で、実際に、食べてみるとやっぱりおいしくなかった」
また、いくら健康に良いからとはいえ、マクロビオティック(玄米菜食)を厳格に信じて励行している人たちはなんだか異様に見えたと、石川さんは述懐する。

平成元年、工場と事務所を改築した。
「雑穀は置いてないの?」
リニューアル後さっそく来店した顧客に訊かれた。
「玄米に雑穀と豆を入れて食べたいんだけれど」

急いで産地に問い合わせ、「玄米、雑穀、豆」を産地から仕入れ、販売。自身でもその3つを一緒に炊いて食べてみた。おいしかった。玄米だけだと気になる独特のにおいもなく、混ぜた豆類、麦、粟、キビが玄米の旨みを引き出すことに気づいた。

それまで通信教育で東洋医学を学び、知識は得ていたものの、実践が追いついていなかったと石川さんは言う。
「そこに、1人のお客さまがきっかけをつくってくださった。それがスタート。運命だったのかもしれませんね」
その最初に雑穀の在庫を求めた先が、今も一番長い取引先である信頼の産地、岩手県だったのである。

DSC_0005.JPG▲石川商店。   撮影:林 泉

商品開発の日々が始まった。
幾度も、幾度も玄米と雑穀の比率を変えては炊き、試食を繰り返した。
そして、ついに「黄金比」に辿り着く。
玄米主体の雑穀ご飯『五穀米3合お試しパック』の誕生である。

朝日新聞夕刊の小さな無料広告欄にプレゼント告知が載ったのは、1996年3月のこと。プレゼント数10個に対して応募数は6207件。ハガキの入った段ボールが次々と店に運ばれてきた。
「応募者はと見れば、北海道から九州まで。首都圏限定の誌面だったのに、です。これはビジネスになる、もっと広くお客さまにお知らせしなければと思いましたよ」


『通販生活』のカタログハウスとの出会い
「商品を紹介したいなら『通販生活』がいいよ」
大阪の知人に勧められて商品をエントリーしたのがカタログハウスとの出会い。
当時、『通販生活』はA4変形版の2ページのみの冊子で、食品関係のアイテム掲載はわずか。
奇しくもカタログハウス側は目玉となる食品を探していた。
1998年、「五穀米」が『通販生活』の裏表紙に採用された。

だが、「五穀米」は売れなかった。
「炊飯が難しく、どちらかというとマニアックな食べ物だったからだと思う」
と、石川さん。DSC_0271.JPG▲店内の様子。手前(左)が「五穀米」。  撮影:林 泉

ある時、某メーカーが独自に「雑穀米」を開発、健康博覧会に出展しているとの情報を得た。すぐに会場に足を運んだ。試食して驚いた。白米に雑穀を混ぜて炊くだけでおいしい雑穀米になっていた。

さっそく、この「雑穀米」を仕入れて自社店頭で販売。全国的な米穀店のネットワークを持っていたこともあり、積極的に他の米穀店にも紹介した。

一方で、自社オリジナルの同タイプ商品の試作も行っていた。
「御社でも『雑穀米』のような商品、できませんか?」
カタログハウスの担当者から訊かれた時、石川さんは即座に答えた。
「できますよ」
こだわったのは、雑穀を13種類入れること。最高のおいしさを生み出す配合だった。

「おいしい! これ、出しましょう」
新商品を試食したカタログハウスの担当者は、感嘆の声を上げた。
産地との雑穀の契約栽培を開始したのはこの時からだ。

2001年秋『福っくら御膳』販売開始。用意した年間数量分は4カ月で売り切ってしまった。
「びっくりですよ。あっという間に在庫がつきて。それでも、カタログハウスは、来年の秋、商品ができるまで待ってくれました」

DSC_4556.JPG▲これが「福っくら御膳」。白米と一緒に炊くと、うっすらピンク色に染まり、見た目にも食欲をそそる。 撮影:林 泉

毎朝8時から夜9時までの12時間、必死で働いた。長男が生まれてからは、妻は子どもをおぶって店に出た。
「父には4年間教えてもらいました。米のこと、接客など商売の基本、心構えについて」
だが、相次いで身内3人がこの世を去り、方向を転換。東洋医学へとぐっと舵を切った。
食とは何か? 健康になるには、本来、何を食べればいいのか? 日本食、穀物であることに気づいたんです」
光るモノは足元にあった。
以来、雑穀を求めて、産地に足を運ぶ日々となった。

訪ねた産地は、これまで自社と米の取引のあるところ。
当時、「雑穀なんて売れるのか? 売れるはずがない」と、生産者たちが拒む中、唯一細々と雑穀を栽培していたのが岩手県の東和町農協だった。
その雑穀で「五穀米」が生まれ、「福っくら御膳」がカタログハウスでブレイクしたのである。


時にぶつかりながら紡いできた産地との絆

商品がヒットした裏には、カタログハウスが一目置く石川商店の商品の質の高さがある。
当時の雑穀市場は、「鳥の餌」のような商品が高い価格で取引されており、実に劣悪だった。
石川商店の「福っくら御膳」はといえば、目視と手作業で1粒ずつ寄り分け、ごみを取り除き、粒のそろったきれいな雑穀のみを商品化。世間の雑穀の認識を一新させた商品でもあった。
「でも、そのために産地とは、しょっちゅう喧嘩してました」

「いいものつくりますよ」
その言葉を信じて取引を開始するも、納品された商品がサンプルと違っていたこともあった。
とはいえ、生産者を一方的に責められないと石川さんは言う。
「かつてさんざん都会から来た流通関係者にひどい仕打ちを受けてきたらしいんですよね」
生産者たちは、大量に購入するかと思えば自社の都合で途端にいらないと手のひら返しをする「買い手」たちのわがままに翻弄されてきた。
「生産者が『人』を信用できなくなっていたんです」

「本当はね、ここ(千葉県君津市)で栽培したかったんです」
だが、関東ローム層のひよくな土地では雑穀をつくるよりも、野菜をつくるほうがいい。JAにも話をしてみたが、受けてはもらえなかった。
「だからよかったんだと思う」
と、石川さん。
雑穀の生産・管理には、設備が必要だ。精製の際に廃棄物が出る。岩手だからこそ、広大な畑や山にそれらを肥料として返し、循環型農業ができている。結果的には、物流費を考慮したとしても経済的なのである。

今でこそ、さまざまなところで売られ、外食でも扱われるようになってきた雑穀。だが、残念ながら、産地を自分の足で歩いているバイヤーはほとんどいないと石川さんは言う。

今でも、どんなに多忙であっても産地に出かけ、生産者と直接話をする。
「産地で、肌で感じた生の情報を、お客さまに伝えることが大事だと思っています」

「五穀米」の開発着手前の10年間は、ひたすら産地に通った。
そうして積み重ねてきた生産者との地道なつながりが、今、大きな財産になっている。
同業他社が喉から手が出るほどに欲しがる雑穀産地である。
(2)へ続く