2011年11月28日

スローフードとは何だったのか?(6)

食の道理を知り、人生のリアリティを取り戻す

イタリアでは「味」へのこだわりと徹底した追求が、スローフード運動を生み出す原動力になってきた。

しかし、味覚は非常に個人的で主観的なもの。
この微妙で繊細な感覚をどのように他者と共有し、深め、広げていくのか?

第6回は、食育としても注目を集めるスローフード協会の味覚体験プログラム「マスター・オブ・フード」について、スローフード協会副会長の石田雅芳さんの話をお伝えする
(聞き手、構成/永田麻美)

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▲何気ない食の知識への興味関心から食の通りを知る、スローフード協会の「マスター・オブ・フード」プログラム。チーズの回も奥が深い(photo/石田雅芳)。


――日本では、テレビのグルメ番組や旅番組などを見ていても味の表現・語彙が少ないですよね。

味を表現して伝えるということの良し悪しというよりも、「習慣」の問題なのではないかと思います。日本では食の場面で味がどうだということを伝えるよりも、食材のつくり手を大切にするとかコミュニティを大切にするとか別のところに重きを置いている。
スローフード協会は、マテリアル(素材)文化を尊重しています。食べ物をモノ化しない代わりに、素材として徹底して第三者的に観察もする。
日本では、食べ物についても精神性が大事にされます。ただ、味そのものをコミュニケーションしたいという情熱は、ヨーロッパ人よりは少ないことは間違いないですね。

西洋の文化では食べ物の味と香りに特に固執し、それをコミュニケーションの手段として使っています。つまり、西洋人は、感じたこと、霊的なものなど形のないものを言語化する努力をしてきた民族なのです。国、宗教、人種が入り乱れる環境で生きていくためには、「自分の感じたことを伝える」ことは死活問題です。そのリアリティが日本とは圧倒的に違います。

ワインを飲んだ時に、「これはあの辺の畑で採れたサンジョベーゼ種じゃないかな?」と思うのは、頭の中にぽっかりそのイメージが浮かぶからです。そのためには、たくさんの味覚のイメージを頭の中に蓄えていなければできませんし、それを人々に伝わるような言語にしなければなりません。西洋人、特にイタリア人はこれが得意です。


――スローフードの根底、大事な部分である「味そのものでコミュニケートする」ことを日本で進めていくには、どうしたらよいでしょうか。

スローフードの教育メソッドの特徴は、大上段に構えないこと。世の食に関係する人たち、食に興味を持つ人たちというのは、両極端に振れる傾向があります。両極とは、単純にテーブルの上のグルメが楽しい人たちと、とんでもなく食の専門知識を持っている研究者レベルの人たちです。それらの間には架け橋がありません。研究者たちの世界の中に眠っている食に関する膨大な知識が、なかなか日常的な食の世界に下りてこない。

そこで、スローフード協会が実践したのが、「マスター・オブ・フード」です。約20種類の食品カテゴリー選び、会員さんたちに食のレッスンをします。いわば、味の体験を言葉化するプログラムです。

ワインコースはすごい人気です。
たとえば、チーズを食べてどんな感じがしたかを言葉で言わせ、それを人々が共有可能かを確かめます。次にチーズを割って臭いを嗅ぐ。とても西洋的な味覚の考え方だと思います。

これはクリエイティビティ、創造性にも通じます。日本人にとって創造性とは、何かしらミステリアスなもの。ですが、西洋世界では、ある程度構築できる、学習可能なものとされています。それが幼児教育のメソッドなど創造性を養うための教育法にもなっています。

たとえばコーヒーのレッスン。コーヒー豆は真っ赤なコーヒーチェリーの中に向かい合わせで収まっている種子で、果肉部分を取るためには2つの方法があり、取れた種を天日干しにして、ローストして、粉砕する。コーヒー豆と聞いた時、普通、コーヒーの業界関係者などを除いて、この辺りのリアリティを知る人はほとんどいません。

人々に対して気付きのチャンスを与えるのが、スローフードのテクニックです。「マスター・オブ・フード」でコーヒーのレッスンを受けた人たちが、「あ、コーヒーってそういうものだったんだ」と、初めて食べ物の道理を知る。そうすると、変形した豆をわざわざ選って高級なコーヒーができる理由がわかってくる。その1つひとつが面白く思えてくるんですよね。


――イタリアでは、もともと「マスター・オブ・フード」のような味覚体験プログラムへのニーズがあったのでしょうか?

いいえ(笑)。スローフード協会では、最初のうちは「こんなもの誰が気に入るのか?」と、疑心暗鬼のままスタートしました。しかし、20年も続けていると見えてきたのは、何て事はない食品の知識が受講する人々の興味を掻き立て、いつしか彼らを虜にすることさえあるのだということ。

お肉のレッスンを受けた人が肉屋さんに行くと、肉の部位を選ぶにも以前よりもずっとリアリティを持って選べます。

食は人生の中でも大きな割合を占めています。そのリアリティを知ることが、人生のリアリティを取り戻すような作業になっていくわけです。イタリアの中ではこのプロセスを面白く思う人たちがどんどん増えていきました。

「お米の回」では、ヴェルチェッリあたりからお米農家の頭領がやって来て話をします。イタリアで流行っているパーボイルド米(何時間煮てもアルデンテ状態が残る)は何故煮えないのか、なぜ美味しいリゾットができないのかなど、人々が毎日買うものに対して情報を与えていく。話が終わる頃には、みんな面白い事を聞いて帰った、得したなという気分になるわけです。家に帰れば、聞いたことを子どもの前で披露できますしね。

僕も何回か出席したのですが、気がついたのは、生産者の話の中で参加者が欲しがる、楽しいと感じる情報は、難しいものでもなんでもなく、割と些細なこと。お米であれば、「どうして、今田んぼに水が張ってあるの?」、「今、お米はどの状態なの?」といったこと。そうした興味の核心を外さないようにプログラムを運営するのが、スローフードの食育の秘訣です。

1コースを履修すると、そのテーマについての免状がもらえます。全20種類を履修すると、「マスター・オブ・フード」の称号がスローフード協会から与えられ、スローフード協会主催の世界最大の食の祭典「サローネ・デル・グスト」で表彰されます。
でも、日本と違って称号が欲しいというよりも、日常のコンヴィヴィウムの活動として、マスター・オブ・フードのコースに時々出席するのが楽しいと思う人が多かったですね。

「マスター・オブ・フード」は、協会の支部が自分の支部の収益活動のために実施しています。しかし、1支部で20コース全て実施することが難しいこともあります。どこもそんなにたくさんスタッフを抱えているわけではありませんから。そこで、フェイスブックなどで情報が他支部に回り、支部をまたいで参加者を募ります。会員は、他支部の「マスター・オブ・フード」のプログラムであっても同じ料金で受けることができます。


――イタリアのスローフードのさまざまな取り組みは、全て本質をどう見極めていくかという点にあるようです。しかし、これを日本で真似すると、なぜか形や上辺だけになってしまう......。

そうですね。日本人が一生懸命頑張ると、どうしても教義主義的な方向に行くことが多いようです。そうすると、互いをコントロールしようとして、「あなたがやっているのはスローフードではない」と言う人が現れたり。イタリアの運動の方向性が歪まないのは、イタリア人特有の要素が関係しているかもしれません。何度も言いますが、イタリア人は「おいしい」という感情は譲れない。だからそれに対してありとあらゆる真摯な努力をする。イタリア人というのは、日本人が思っているよりもずっと真面目な民族なんです。ただ、やんちゃが多いのでなかなかうまくいかない(笑)。
→ (7)へ続く(4)食科学大学.jpg
▲スローフード協会では子どもから大学教育までの食育をモットーに、2004年に食科学大学を開校。写真は、2005年に海外実習の一環で、日本の雑穀農家を訪問した時のもの。

石田雅芳(いしだ・まさよし)
1967年福島市生まれ。同志社大学文学部美学芸術学専攻、1994年よりロータリー財団奨学生としてフィレンツェ大学に留学。1998年よりフィレンツェ 市公認美術解説員、その後日本のメディアの現地コー ディネーター、イラストレーターなどを経て、2001年より2007年に帰国するまでスローフード国際協会の日本担当官。現在スローフード・ジャパン副会長。