2011年11月28日

スローフードとは何だったのか?(4)

消費されてしまったスローフード

2001年のイタリア年を機に、熱狂的に日本に迎え入れられたスローフード。日本人は、スローフードというイタリアからの黒船に何を求めたのか?

日本人と西洋人のコミュニケーションの仕方や意識の違い。それらが明白になるにつれ、日本人独特の「性質」が明らかになってきた。

第4回では、日本でのスローフードの捉え方とイタリアのスローフード協会の思想とのかい離がどこから始まったのかを、スローフードジャパン副会長の石田雅芳さんと探っていく(聞き手、構成/永田麻美)

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――スローフードがあれほどに持て囃されたその成功の要因はどこにあったのでしょうか?

名前です。訴求力が各段に良い。何をやるかがすぐにわかる。「スローフード」というだけで何かやりたくなるみたいな感じがするわけです。

あの頃はすごくこの「言葉」が眩しかったし、みんなが欲しがっていました。実際、スローフード協会の中身さえ知らなくても、飲食店が「スローフード」を看板にするし、勝手に「スローフード」を冠にした協会もつくられてしまいました。


――当時はまた多くの日本人がスローフードの聖地・ブラを訪れました。

2002年~2004年頃まで毎週、3日に1度ぐらいの割合で日本の団体を迎えていました。自治体首長、議会役員、農業団体などこぞってやってきました。
ものすごい騒ぎでした。というのもトラブルが多くて。皆さん自分は"偉い"という自負心の下に、ブラという寒村にやって来てしまうものですから、相応に扱ってもらわないと怒り出してしまうんです。一番ひどかったのは、ある自治体の市長と市議会議員の一行からの「屋根のない部屋に通された」というクレームでした。彼らは、自分たちの町ですでにスローフード協会のロゴを使ってスローフード祭りを行っており、その資料を本部に渡して、本部からお墨付きをもらおうと考えていたのでした。そこで、「会員でもないのに、勝手に使われては困ります」と言うと、怒り出して、「なら会員になればいいんだろ!」と捨て台詞を残して帰って行きました。
結局、会員になってはくれず、ロゴとタイトルは使用され続けましたが(笑)。この1件があってから、本部では日本人の代表団は受け付けないということになりました。

そうして、日本のスローフードは中身のないままあちこちの支部の会員だけが増えていきました。すると、日本の会員さんたちからクレームが上がってくるわけです。「スローフードを始めたんだけれども、何をやっていいかわからない」と(笑)。

仕方がないので、今度は各国のスローフードの支部がどんな活動をしているかを、本部に人を置いてリサーチしました。世界中に電話とメールでコンタクトして、各国の各支部が行っているイベント情報リストとレポートをスローフード協会のウェブサイトにアップしました。
でも、日本語でなく英語だったからか、結局は見てくれなかったようです......。

(4)ブラの町.jpg
▲スローフード協会が生まれた町、ブラ(photo/石田雅芳)。


――日本人は、西洋のものをうまくアレンジして日本流として取り込む"和魂洋才"を得意としています。

それは、日本人が外国のものを受容する時の歴史的な態度とも呼ぶべきものかもしれませんね。仏教も、日本で布教されたものはインドで生まれた仏教とは異なっています。中国人が受容した仏教とも違う。仏陀の像も、苦しい修業してあばら骨だらけのものなど一切作られず、象徴的な物になっていきます。その上、思想自体もどんどん変えられていく。

スローライフという言葉自体はスローフード協会が1980年代につくった言葉なんですが、日本には別個に協会が存在しています。スローフード協会の「マスター・オブ・フード」というプログラムを真似た認定ビジネスもありますし、日本ではスローフードの面白いアイデアがあっという間にコピーされていきます。

1つの思想を真似るというのは、何かネガティブなことをしたと解釈されるのが西洋の社会です。ヨーロッパ人からはアジアには著作権の概念がなく、日本人は"真似しい"であると思われています。イタリアでは日本からの観光客が首からカメラを提げているのは、たくさん撮影して日本に帰って真似するためだと言います、冗談でなく。でも、日本社会では真似することも一種の美徳になってしまう。良き思想を自分たちなりに解釈したと。西洋では、言論や思想は人や協会に帰属しているものです。でも、日本では良い物があればみんなで使います。
スローフードもおそらく、この文脈の中で輸入されたのではないでしょうか。


――多くの日本人は当時スローフードの中身でなくその響きに惹かれたわけですね。そこになんだか儲かることができそうだというノリの人たちがわーっと集まってきた......。

そうです。たとえばイタリアで、鳥インフルエンザやBSEの問題が取りざたされる時には、スローフード協会の人間はオピニオン・リーダーとしてどこかで発言しています。スローフードは意見を表明する団体であるというのが、イタリアでの位置です。今では、スローフード協会の人間というだけで、大変な信頼を得ることができます。

一方で日本では、スローフードに限らず、さまざまな運動や言葉が次から次へと消費されていってしまう。
今やスローフード協会は、世界最大の生産者会議を成功させて、EUの地域産品政策のコンサルにまでたどり着きました。世界でものすごく認められた食の言論集団になったにもかかわらず、日本人は興味を失くしてしまった。それは非常に残念ですね。

世界でイタリアに次いで一番多くのスローフードの会員を有しているのはアメリカです。主導しているのはアリス・ウォーターズ氏。西海岸でシェ・パニスという伝説のレストランを経営している、有機農業の流れをつくった人です。ご存じのように、アメリカというのは市民運動や市民団体をサポートするシステムが非常に進んでいますよね。


――日本でも1970年代には有機農業運動が全国に広がっていきました。そうした歴史があったのにもかかわらず、なぜスローフードは運動として浸透しなかったのでしょうか?

やはり、西洋社会と日本社会の相違でしょう。僕は、全く違った文化体系の真ん中に10年曝されましたが、日本は本当に特殊な国だなと痛感しました。
たとえばアソシエーション(連盟、連合、協会など)をつくるのは、やりたいことがあるから、確固とした主張があるからですよね。主張や思いに賛同する人間が集まっているわけですから、往々にしてアソシエーションをつくること自体が言論的な活動をすることをということを基本にしています。西洋的だと言われればそれまでですが。

ただ、日本人が理解するアソシエーションというのは、ちょっと違う。「寄合」というか「友達付き合い」というか。何かを主張するわけではないので、ベクトルは外へは向かっていません。それより、土曜日の夜にみんなで飲んで集まることのほうが重要なんです。
(5)へ続く

石田雅芳(いしだ・まさよし)
1967年福島市生まれ。同志社大学文学部美学芸術学専攻、1994年よりロータリー財団奨学生としてフィレンツェ大学に留学。1998年よりフィレンツェ 市公認美術解説員、その後日本のメディアの現地コー ディネーター、イラストレーターなどを経て、2001年より2007年に帰国するまでスローフード国際協会の日本担当官。現在スローフード・ジャパン副会長。