2017年7月 1日

リセット、リスタート

日々に追われ、長期間放置後のブログ更新です......。
気がつけば7月。すでに1年の半分が過ぎました。

ここで一度、これまでの自分を一旦リセット!
(ブログも、今後はもうちょっとだけ、頻繁に更新するようにします......)

で。
改めて、自分に問いました。

「私が一番うれしいのはどんな時だろう?」

自分も他人もごまかすことなく、誠実に、懸命に生きている人たちにお会いした時、その人たちの笑顔に触れた時、その人たちと心が通じ合えた時。

そして。
その人たちと一緒に何かを成し遂げた時。
ほんの少しお役に立てたという実感がある時。
その人たちから必要とされているという実感がある時。

私のモチベーションは、やはり、人とかかわることで生まれているのだなぁと思います。

特技といえば、その人が持っている空気感や言葉にしていない(できない)本当は伝えたいメッセージを、私なりの解釈でその人になり代わって言葉で表現すること。

そのことがやっぱり、好きなんですよね......。

とはいえ、言葉と付き合い扱うのは、難しい!

言葉の持つ力をどこかで信じてきましたが、言葉は心をつなぐ手段にもなれば、逆の場合もあります。

同じような言葉(会話)であっても、微妙な言い回しやニュアンスによっては捉え方が変わります。
行間に、伝える側の思いや読み手の感情がプラスされますから、分かり合えたという喜びや感動が湧きおこる半面、誤解や溝も生まれます。
その修復をも言葉を使って行おうとすれば、言葉に揺さぶられ、翻弄されてしまいます。

メールやブログのような、対面での会話のようにノンバーバルな要素が助けくれない世界でのやりとりは、神経を使います。私はなかなか思いのままにすらすら書くことができません。

思いや気持ちを伝えることの難しさを、これまでもさんざんこのブログにも書いてきました。

曖昧な表現や主語の省略も多く、阿吽の呼吸や以心伝心など、言外の意味を感じて空気を読むこと(「忖度」とか...)を要求される日本語でのコミュニケーションは、いつも裏や奥にあるものを推し量らねばならず、まさにムラ社会=相互監視社会なのだと痛感します。

もちろん、日本独特の繊細な表現が生まれたのも事実ですが、閉鎖された社会の中で成り立ち培われた文化・風習は、現代のオープンな情報化社会にあっては、時に「自分」を出して生きていくことの難しさにもつながっています。

私は常日頃から「どう生きたか」という自分の軌跡が大事だと思ってきました。いろいろぶつかりながら、でも無難にきれいに生きることができず、目の前に将来が約束された道があってもなぜかその隣のイバラの道へと進み、ズタボロになってきました。

より多くの学びを得たい!という私の無意識の衝動だったのかもしれません。

でも、そんな自分をいまは誇りに思います。
んーーー、よくぞここまでがんばってきた!!!


さて。
きょうから、ここから、また始めますか。

心のままに、自分にも他人にも正直に、誠実に。
私なりの私らしい私だけの言葉を紡いでいきたいと思います。

私に元気をくださる人たちに、お返ししなければ。
その人たちから、「あなたを見ると、一緒にいると元気になる」、そう言われたいですから。