2015年6月 3日

またも昨年書きかけ記事:働くということ

こちらも昨年書きかけの記事。
随分と時間が経ってしまったのですが...せっかくですので、続きを完成させたいと思います。
お付き合いくださいませ...。

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五嶋みどりさんの「チャイコフスキーのバイオリン協奏曲」を聴いています。この曲は、彼女の演奏が私の中ではピカイチです。まさに魂が震える音を奏でる人です、彼女は。

その五嶋さんが、NHKの『プロフェッショナル』に登場。
彼女の人間性に惚れている私には、それを再確認する番組となりました。

障害を持つ子どもたちとの共演の練習に訪れたその会場で、当の子どもたちが演奏 に四苦八苦し、うまくいかない場面でのこと。私ならば、がまんできず、「え~~っとそこはじゃあ、○○さんから1人ずつやってみましょうか」と状況をなん とか打開しようと、場の空気を変えようと、必死になります。でも彼女は何も言わず、じっと、ニコニコ微笑み見守っているだけ。
そして、言いました。

「私にはとても素直な、きれいな音が聞こえています」

世界的バイオリニストで、クラッシック界の頂点にいる人です。
鑑賞する側は、演奏者に常にクオリティ、演奏レベルの高さを要求します。

彼女にはどんな音が聞こえていたのか?
彼女の言葉は、「音の世界」、「音楽」というものが持つ深遠なる宇宙がそこに広がっていることを私に思わせました。

そして私は、彼女の次の一言に雷に打たれたかのようにしびれました。

「私は、ただ、ただ、素直に、とにかく素直な音を奏でたいんです」

本番直前までバイオリンを手放さず、ひたすら音を確認し続ける五嶋さん。

「五嶋さんにとってのプロフェッショナルとは?」
番組からのこの質問に彼女はこう答えました。

「感情に振り回されず、仕事を、与えられた仕事、自分で選んだ仕事、
そしていただいた仕事というのに向かって、情熱を注ぐことだと思います」

感情に振り回されず、仕事に情熱を注ぐこと。
この答えは、「ただ、ただ、素直な音を奏でたい」という五嶋さんの言葉とリンクしています。
まっさらというか、混じりっ気なしというか、無や空の境地で目の前に与えられた事に対して、自身の最大限の力を発揮する...私は彼女の言葉をそう解釈しました。

彼女が語る言葉が、彼女だけの「オリジナリティ」を纏って発せられるのは、彼女が常に「音楽とは何か?」という根源的な問いを持って生き、仕事をしているからではないか。

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書きかけは、ここまで。
この後、どのように文章を綴ろうとしていたのか......。
もはや時間が経ち過ぎて忘れてしまいました(汗)。

で。
改めて、以下、上記を読み返してみて、2015年6月になっての考察とさせていただきます、お許しください。

それにしても、五嶋さん、ステキ過ぎます......。
「職人」だなぁと思います。
私の中の定義は、「プロフェッショナル=職人」です。

最近、一流の職人さんたちが、妥協を許さず、徹底的に完璧を追求する理由が、ようやくわかってきたような気がするんですよね。

たとえば、シンクに貯めた水が、栓を抜くときれいに時計回りに渦を巻いて流れていくように、木々は全ての葉が陽の光を浴びることができるよう1枚も重なり合わないように枝から生えているように、物事には、というかこの世には、最適のバランス、リズム、ココ、コレでなきゃダメだというピタッと決まる「法則」とでも呼べるものが存在しているように思います。

職人はその法則、バランスを追い求めるのではないか。

そうした追求の果てに出来あがった最高の仕事は、まさに、その方たちが培ってきた技術・叡智の粋、賜物です。

何のために仕事をするのか?

「音楽とは何か?」が五嶋さんにとっての根源的な問いであれば、私にとっては、「仕事とは何か?」がそれにあたります。

以前から、仕事とは、生活のための手段のみならず、社会とつながってその一員として参画するという意味合いがある、と私自身は思ってきました。
そこに、最近、新たにもう1つの視点を見い出しました(という気に勝手になっています...)。

それは。

技術の対価としてのお金を、社会に循環させるため

ちょっと意味不明ですよね...。

私が言いたいのはですね、

世の中の、私たちの心を豊かにしてくれる、感性を深めてくれる、時に世界に誇るような、称賛すべき、失ってはならない極められた高い「技術」。
それらを私は失いたくありません。なくなってほしくないんです。

「技術」という言葉の範疇には、モノづくりだけでなく、サービス、アートや芸術、学問、普遍的なものも含まれると考えています。

それは、たとえば、伝統技術とか、日本が誇るモノづくり技術とか、だけでなく、近所の最高においしい焙煎珈琲屋さん、卓越したセンスを持った料理人さん、味にブレのないトマトをつくる名人とか......。

そうした技が消えてしまわないよう、なくさないようにするには、彼らの労働に対する「正当な」対価をまずは私が払うこと。払い続けること。
対価をきちんと払い続けられるようにするためには、私自身が相応の稼ぎを得なければなりません。

その稼ぎを得るためには、私自身が自分の仕事の中で対価に見合う技術とサービスを提供できなければならず、常にスキルを磨いていく必要があります。

なくしてはならない、残したい技術がある。
ならば、それに誰かがお金(技術への対価)を払い続ける。対価が払われる以上、その対価に見合う、あるいはそれ以上に喜んでいただける仕事をしようと、人は努力をします。

つまりは、労働して社会が機能していくこと=技術への対価の循環である、と思ったのです(説明が回りくどくて、スミマセン...)。

だから、私は仕事をしてお金を稼ぎたいのです。
私以外の素晴らしい技術を提供してくださる方々に、きちんとその技術に見合う対価をお支払いしたいので。

安ければいい、便利になればいいのか。
現代では、3Dプリンターで、小さな部品のみならず、家までつくることができます。
ならば、人の手による「技」は要らないのか?
なくなってしまってもいいのか?

ちゃんとした技術には、それ相応の対価を支払うべきだと私は思います。
そして、互いにスキルを磨き高め合って、良いものを追求していく。
そこに、私たちの暮らしをいろいろな意味で豊かにしてくれる「文化」が生まれてくるのではないかなと思うのです。


最後に、今年の4月後半(GW前)に撮影した、長野県飯山市の心癒される風景の写真を。
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