2015年1月 6日

書きかけ記事第1弾:線引きと嫌われる勇気

新年が始まりました。
昨年はいろいろな意味で「転機」の年でした。
劇的に変わったというより、状況に応じて対処するうちに気がつけばそうなっていったという感じでしょうか。

変化のきっかけとなったのは、やはり、数年前から着手していた「捨てること」でした。
そこから悟った法則。
困難に直面したら、自分の奥を見つめ、慌てず、下手に策を講じない。そして、そのことに関連する全ての「執着」を捨てること。そうすれば、不思議と思いもよらぬ方向で問題が解決して次の新しい展開が見えてくる、まるで別次元の扉がすーっと現れて開くように。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、これまでで、最長の4カ月のブログ放置。申し訳ありません。
というのも、現在進行形の仕事については、クライアントさまとの守秘義務、機密保持の意味もあって、内容をお知らせできません。
ならば、終わったら、実績としてお伝えする......可能なのですが、それは私の功績というより、、現場で実際に動いてくださったクライアントさまのスタッフの皆さんなどの努力の賜物です。

それを、さも自分の手柄のようにPRすること自体になんだか後ろめたいというか、嫌悪もありまして...。ブログを書くことへのモチベーションがなかなか上がらず、書けませんでした。お許しください。

とはいえ、書きかけてアップしなかった記事もあります。
新年始めは、その2本から、新たな気持ちで記事を完成させてアップすることにいたします。

では、まずは10月アップ予定だった記事から。

-------------------------------------------------------------------------------

先日、ある会合で、とある観光関連団体の偉い方がしみじみこうおっしゃったんです。
「地域づくりって、ホントに難しいですねぇ」

どこがどう難しいのか?

私のような、地域に入り地域の課題を探って地域の皆さんと一緒に仕事をさせていただくことを生業とする、いわば地域コンサルタントのような人間が「地域づくり」を語る時、何をもって、地域が元気になったというのか?

ポイントは、「『地域の皆さん』って誰のこと?」=「誰の満足なのか?」にあるのでは、というのが、私的視点での(経験からくる)解釈です。

誰(=具体的な年代、性別、職業の)が元気で、満足しているのか?
それって、窓口である行政担当者の満足ではないのか?
それが、組織内の「上」にばかり意識が向いている担当者の場合は?
あるいは、住民の中の一部の人たちの満足かもしれません。
その一部の人たちは地域の、住民皆さんの主張や気持ちを代弁している?その人たちは地域や地域づくりの中で、どのような役割と位置付けにある人たちなのか?

異なる立場や職業、グループの多くの「誰」さんたちが笑顔でイキイキと暮らしている状態こそが、理想的な地域が元気な姿なのであれば、やるべきことは、地域の状況を徹底的に把握し、俯瞰して、その上でどこから攻めてどこに力点を置くべきかを考えて動くことです。

いつもお話していますように、外の人間にできることなんて、たいしたことはありません。
行政や住民の皆さんにモチベーションをアップしていただくよう心を配り、客観的に観た視点からの提案を行い、皆さんが自ら目的と方向性を見つけ動くことをお手伝いする、といったことぐらい。
しかし、そのベースには、的確な地域全体の人間関係を含めた状況の把握、分析がなければならないと私は考えています。

だから、地域づくりは難しくて、大変なのです。
地域づくり=「地域の人間関係の調整」ですから。少なくとも、私はそう考えています。

となると、そのどこまで、外部の人間が手を出してよいのか?

地域の状況の情報収集をするも、たとえば、私が担当する仕事の窓口の行政担当者の意識がそれほどでもない場合、あるいは偏っている場合、正確な情報を得ることができません。そこで、同時に住民の皆さんと交流を図りながら独自に収集をします。この時、集会などでご意見を伺うだけでは見えてこないものがあります。また、ふとした会話のの中やある瞬間にわかることもあります。時間が経ってから見えてくる事実や情報もあります。
さまざまな方々のお話、それも「本音」をお聞きしなければ、実態は見えてきません。

もちろん、状況の把握には私を含めて関わる人の「主観」が入りバイアスがかかることは否めません。

ただ、客観的で冷静な分析は、しがらみのない外部の人間だからできるものでもあります。その分析に基づく助言や方向性の提案こそが、外部に人間にできる唯一のことかもしれません。

ここで、ビジネス的に安全を見て、つまりビジネスライクにいくならば、深入りは禁物です。何しろ、地域には長い時間の中で醸成された複雑な人間関係があり、それが地域の政治とも関連していますので。

でも、そこで単に、「入口」できれいに仕事をして終わる、あるいは引き下がるだけでは、地域を本気で元気にすることはできません。

私は、常に、その線引きに悩みます。
悩んで、悩んで......でも、どんなに悩んでも、最終的にはやはり、「目的志向」。その地域の目指すところがどこにあるのかを再確認して、それを達成するために自分にできることをやりたいと思っています。

遅まきながら、『嫌われる勇気』を読みました。
アドラーについては、個人的な理由からちょっと避けていたところがあったのですが、なぜかこの本は気になって本屋で手に取りました。
あっという間に読了した時、私の中のさまざまな疑問は氷解し、明確になり、論理的に納得がいきました。

日本は相互監視の村社会です。
常に周りから何かを言われないよう、事を荒立てず、表面的だろうと協調できる生き方が求められます。

暮らしの中では地縁血縁、組織の中ではしがらみだらけの農村社会で生きる人々、特に沸々とした思いを持つ人たち、若者たちにいま一番必要なのが、一歩を踏み出す「嫌われる勇気」なのかもしれません。

話を戻します。
アドラー心理学の重要な要素の1つに、「課題の分離」があります。
先述の地域への介入の線引き問題をこの課題の分離という概念に照らして考察してみます。

果たして、私は、他人の課題を背負い解決しようともがいているのだろうか?

傍目にはそうでしょうね。
有能なコンサルさんであれば、自身の直接のクライアントさま(この場合は、おカネを支払ってくれる人の意味)からの意向を組んで動くことに留められるだろうと思います。

私の場合、常に、おカネをくださる方の先にいるその商品やサービスの受益者、つまり、住民や消費者の利益を最大にすることがクライアントさまの目的を達成させることだと考えて、出来る限り動きます。

ただ、それでもクライアントさまを説得できない場合もあります。
ここで課題を分離します。
納得されない、受け入れられないのは、クライアントさま側の都合であり、私の課題ではない、だから仕方がないのだと。

地域や事業者さまとお仕事をさせていただく=ご縁をいただいた以上、丁寧に、アフターフォローも含め最後まで責任を持ちたい、それが私の流儀です。