2014年9月12日

いまを大切に、どう生きていくか

乾いた空気に涼しい風...すっかり秋です(トップページの画像が「残暑」のままですが、お許しを。近日中に差し替えます→ やっと、替えました...)。
東京は昨日まで大気が不安定で局所的に激しい雨が降っていましたが、きょうは本当に気持ちよいお天気。

今朝は、ラジオ番組に電話生出演したのですが、これが、もう、もう、お恥ずかしい始末で(汗)。
朝起きるとなんだか頭が重く偏頭痛が。PCに火を入れて仕事を始めるも、やる気が起こりません。ならば、ラジオの台本を見直して準備しておくかと、声に出して練習すれば、これが頭にちょうどもやがかかっているというか、なんかピンボケ状態とでも言うんでしょうかね、スラスラ文章が読めず、「これはアカン!」とちょっと練習して臨んだ放送だったんです。

それが、あの結果。
あああ......。
言わなきゃいけないことをすっとばし、どうでもいいことをダラダラ。
第一に、自分が実質関わっていないイベントの情報を伝えるという変化球の告知というのは、どこかやはり魂がこもらないものなのだと痛感です(言い訳です、はい)。

そして、ここから、何事においても、

「この経験は、どんな意味があったのか? 
私へのどんなメッセージだったのだろう」

と、考えてしまうのが私なんですね。

1つ言えることは、うまくいった時よりも、うまくいかなかった時のほうが、終わった後に俯瞰的になれます、私の場合。どこに問題があったのか、客観・冷静に再検討しようとするからです。

「あーあ、私ったら...情けない、トホホ」

と、ひとしきり嘆き、その後、内観です。
しかし、これをやり過ぎると、自罰的になってマイナス思考に陥ります。
けれども、幸いにもその点が中途半端な私は、最後は「ま、いいかっ」で終了です(笑)。

で、きょうはその俯瞰、内観している最中に、ふと思い出して、gmailをチェックしたのですが、そこで、長らくご無沙汰だった友人からのメールを読み、驚き、ショックを受けてしまいました。

そのメールとは、彼女と私の共通の友人が、最愛のパートナーを失った(闘病中から急逝)というニュース......。その共通の友人の近況をまったく知らなかった私は、「えーーっ!?」と声に出して叫び、知らずにのほほんと暮らしていた自分を恥じました。深い悲しみの中にいる彼女のことを思うと、もう、胸が詰まりました。

そして、再び思いました。

人のいのちは、はかない、と。
いのちとはなんなのか、生きるとはなんなのか。
いま、ここに、こうして、私は生きている。
いのちをいただき生きている私は、この生を大切に、全うするためには、何をすべきなのか?

3.11以降、私がずっと考え、自らに問いかけながらきたことです。

この世に生を受けた以上、そして人間が社会的動物である以上、社会とかかわりながら生きることに意味がある、と、私は確信しています。

私がこの「いちぐう」サイトの説明として書いている、下記の文章。

「社会の歯車になりたい」。私の願いです。
一人ひとりが置かれている立場で精一杯ベストを尽くせば、きっと社会は良くなるはず。
自ら光り輝くことで隣の人を照らし、社会をも照らす。

「社会の歯車」とは、たとえば社畜のように、ロボットや機械のように、自分を押し殺して生きる、という意味ではありません。

それは、次に続く、

「一人ひとりが置かれている立場で精一杯ベストを尽くす」

= 人が、人として、当たり前に生きて、当たり前に行動すること

だと私は思って います。

当たり前とは何か? 「まっとう」と言い換えてもいいかもしれません。
当たり前に考えて、当たり前に生きることこそが、自らがイキイキと楽しく光り輝くことであり、袖振り合う人たちにその光が伝染してゆき、周囲を照らし、社会をも照らす......そうすれば、社会は当たり前に機能するはず...
それが私の願いです。

いのちみじかし。だから、やっぱり、悔いのない生き方をしよう。
きょう一日の出来ごとからの私の学びです。