社会人のパフォーマンス農業体験って・・・
先日、久しぶりに東北地方のある町の友人に会いました。
積もる話もあり、話は尽きず、弾み......その中で、都会の若者たち(社会人)の農業体験のことが話題に上りました。
その町では、ある時から、都会の市民大学に頼まれ、「食クラス」の受講生の農業のフィールド学習の場の1つとして、体験の受け入れを始めています。
くだんの市民大学のウェブサイトを見てみました。
ものすごく、オシャレです。
組織にも多くの団体や企業が参画しており、講師陣も現代風の都会的な若いクリエーター陣がそろっています。
活動も多彩で、サイトを見ただけでも、発展性・可能性を感じるし、躍動感があります。
素晴らしい団体のようです。
その志も、素直に称賛したいと思います。
しかし。
農業に関する部分については、え~、う~ん......。
私はいつものように違和感を抱いてしまいました。
なんか上すべりしていないだろうか?
このような活動を始める力も、ましてやマネジメントする力もない私が意見すること自体、大変おこがましいことであることは百も承知です。
それでも、どうしても言いたくなってしまうのは、友人から次のようなことを聞いたからでもあります。
「『体験の受け入れをお願いします』と言われても......みんな嫌がってね、結局、うちが受けることになって」
その町の農家が受け入れを嫌がった理由を、友人はこう言います。
「たとえば、大豆づくり。わーっときて、種まきしましたーで終わり。畑の耕運も、水やりも、草取りも全部やるのは私。で、あとはわーっと収穫に来るだけ」
田んぼや畑ではそろいのかっこいいユニフォームに身を包み、嬉々として農業体験に興じ、あとはよろしくと去っていく彼ら。
一人、炎天下、彼らのために畑の管理をする友人のむなしさが、私には切々と伝わってきました。
都会暮らしの、農業と接点のない若者たちが、土に触れ、農作物をつくる体験をすることの意義は認めます。
しかし、農業で重要なのは、プロセスです。
一番知ってほしい、学んでほしいのは、作物ができる過程であり、その間の農家の愛情のかけ方です。
種まきと収穫だけのイイトコドリの農作業のハイライト体験は、対象が小中学生(たとえば教育旅行)ならわかります。
それが、仮にも食について市民大学で学ぼうという社会人が、何の疑問も抱かずに「楽し~い、おもしろ~い!農業って、ス・テ・キ!」とノー天気に喜んでいるって......なんだかなぁという感じです。
地味できつい草取りなどの農作業だと受講生が集まらないという事情もあるのでしょうね。
ちゃんとお金を取るプログラムのようですから、採算を考えてのことなのでしょう。
だけど、それに付き合わされる現場の農家は?
始末が悪いことには、都会から来る彼ら(仕掛け人やマネジメントをする人を含む)は、自身らが訪れ農作業をすることが、その町や農家にとって「イイコト」、喜ばれている=自分たちはイイコトをしていると思っていらっしゃる......。
つまり、またぞろ私の嫌いな「してやってあげてる」的上から目線を感じてしまったのです。
この農業体験の受け入れ事業で、地域にどのぐらいのおカネが落ちているのでしょう?
そのあたりの詳細については、実は友人に聞きそびれてしまったのですが、少なくとも、受け入れ農家がその労働に見合うフィーをきちんと得られているわけではなさそうです。
それでも、「多少なりとも、地域に利益をもたらしているではないか!」
と、反論・お叱りを受けるかも知れません。
ただ、そうであったとしても、「(受け入れは)もう勘弁」と、農家に言わしめる状況って何なのでしょう?
確かに、「若い人たちが地域に来てくれるだけでうれしい、ありがたい」という町・村・集落もあると思います。
オシャレでハイセンスな若者たちが地域を訪れることは、場合によっては、一定の効果があるかもしれません。
問題は、訪れる彼らが地域の人々とどのような関わりを持とうしているのか、どんなスタンスで入ってきているのか。
お手軽農業体験で、オシャレでステキな農業をちょこっと演出すると地域が変わる!?
そんな幻想や妄想はそろそろ捨ててください。
パフォーマンス農業体験は、もういいです。
もしかしたら、地域の皆さんは迷惑しているのではないだろうか?
と、ほんの少しでも想像してみてくださいませんか。
「だって、みんなニコニコ笑って、『ありがたい』って言ってるじゃないですか」
表向きはそうでしょう。
農山漁村の皆さんって、シャイでなかなか言いたいことも言えないんです。
相手の立場で考えれば、農業や地域に本気で関わりたいと思うのであれば、見えてくるハズです、わかるハズです、きっと。