2012年9月11日

「つながり」や「絆」を強調することの危うさ

毎週楽しみにしているインターネット配信記事に、MSNの『ぐっとうぃる博士の新感覚★芸能解説』があります。
卑近な芸能ニュースを題材に、そこに現れる人間の心理を読み解き、掘り下げ、社会学的テーマにまで迫る分析は秀逸で、いつも「なるほど」と思うことしきり。

先週の分析がまた、“目からウロコ”のおもしろいものでした。
記事の中で「ぐっとうぃる博士」こと渕上賢太郎博士は、一見、日本は言論が自由な国に見えるが、実はそうではないと主張。
その理由として、社会心理学者・山岸俊男氏の「マグリブ商人連合」の話を引いて、「我々日本人は、他国と比べ、他人を信頼していない国民性を持っているらしい」と言うのです。

日本人といえば、和を尊び協働の精神を大事にする集団主義のハズ。
なのに、他人を信頼していない国民とは???

マグリブ商人連合とは、11世紀地中海貿易で活躍したユダヤ商人の総称。
貿易事業に伴うリスクのうち「非対称性リスク」(たとえば、生産者が知り得る栽培や農産物の情報を消費者は知らないといった情報の「非対称性」を利用して、消費者への情報をごまかしたり、偽装したり、利益の一部をかすめ取るなどの不正が出て来る)を回避するために、彼らは2つの解決策を考え出しました。

それが、
「自分たちの仲間しか雇わない」
「自分を裏切った人がいれば、その情報を仲間に広め、(場合によってはその子孫も)二度と雇わないようにすること」

山崎氏によれば、この方法で日本人は“和”を築いているらしいと。
なるほど~!
「村八分」などのムラ社会の閉鎖性の原理はここにありましたか。

さらに、私が大きくうなずいたのは、渕上博士が博士を師と慕う山田君にSNSについて語るくだり。

 

「(Facebookに)何気なく記事をアップしているとしても、それは日記ではなく、個人メディアだ。その人はそれを見ている相手とつながりたいと思いながらも、その相手に(本当の自分ではなく)見せたい自分を載せているんだ」


つまり、

 

「SNSでのつながりは浅いもの。本当のつながりは、その外にあるってことだよ」

 

我が意を得たり!
だから、私はFacebookに今一つ積極的になれないのです。
他人に自分のプライベートを見せて、自慢して、その場限りの共感をもらう。見せたい自分に対して、そのご本人が喜ぶであろうコメントをくれる「やさしい」友人たちに囲まれ幸せを感じる人もいるでしょうが、しょせん、見せかけにすぎません。
そうしたつながりが、私には非常に胡散臭く思えてしまいます。

もちろん、情報の拡散ツールとしてのFacebookの威力は認めるところですし、ソーシャルビジネスや企業活動に上手に活用すれば素晴らしい効果があることは否定しません。
Facebookでつながることで新しい出会いやビジネスが生まれる可能性もあるでしょう。

個人の「つながり」欲求満足ツールとしてのFacebookに納得していないだけです。
すでにメルアドも知っている友人・知人であれば、わざわざFacebookで友だち申請しなくても、用事があれば普通に電話やメールすればいいのでは?
アナログ人間であるがゆえ、単に抵抗しているだけかもしれません(笑)。
ただ、「みんながやっているのに、なぜあなたはやらないの?」と、やらないほうがおかしいといった空気に流されてしまうことに嫌なもの、危険なものを感じてもいます。

Facebookの成り立ちが、クローズドの友だち同士のコミュニケーション手段としてのもの、友だちの輪を広げるツールであったことも、今一つ私が乗れない理由です。
だって、そんなことしなくても、素晴らしい信頼できる友だちはもう十分たくさんいます。
つながりは十二分に感じていますから。

渕上博士は言います。

 

「人間、特に日本人は、和だとか友達とか言っているが、実は誰ともつながっていない。誰も信用していない。一時期は友達だ、味方だと思っていても、その相手に利益を与え続けなければ、必要とされなくなってしまう。つながっているはずのFacebookも、薄い表面的なつながりにすぎない」

 

表面的なつながりをどんどん増やして、その数を誇り、あたかもそこに幸せがあるかのように夢中になるのって、ずいぶんと疲れることだとは思いませんか。

今、人々が欲しているのは、「気まぐれな共感」。
日本経済評論社・栗原哲也社長のこの表現は言い得て妙です。
栗原社長は、「売れさえすればよし」の出版業界で安直な本が出回っている現況を、「『気まぐれな共感』を持てる本づくりが流行っている」(日本農業新聞の「編集者のひとこと」より)とばっさり。その傾向は出版業界に限らず、政治の世界における橋下大阪市長人気も同様であり、その人気にすがる選挙を控えた国会議員しかり。

なんだかよさそうと雰囲気で決め、みんながそっちを向いているからと流され、みんながそっちに走っているからとより安易な共感へとせき立て、盛り上げる……本当の深くて大切な「つながり」や「絆」は、きまぐれで安易な共感からは決して生まれないと思っています。