2012年4月28日

人間にとっての良心

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▲「結城学校同窓会」には、結城先生にお世話になった各地の生産者の皆さんが食材持参で駆け付け、手作りの最高の「食」を振る舞ってくれた。写真は、「鳴子の食」のテーブル。

久しぶりに宮城県大崎市の鳴子地区へ行ってきました。
師と仰ぐ民俗研究家の結城登美雄先生が第61回河北文化賞(河北新報主催、東北の学術、芸術、体育、産業、社会活動の各分野で顕著な功績を挙げ、東北の発展に尽くした個人・団体に贈られるもの)を受賞されました(先生、本当におめでとうございます!)。
そこで、結城先生の子弟が集い、受賞をお祝いする「結城学校同窓会」が、“鳴子の米プロジェクト”有志が中心となって催されたのです。

震災後、毎日、泣いていたという結城先生。
被災地に電話すれば、「もうこんなところに住みたくない」、「もう来ないでくれ!」と強い拒否反応を示す人たちに打ちひしがれたそうです。それでも勇気を振り絞って、1カ月後各地を訪ねてみれば、あんなに電話では拒絶していた人たちが、「よう来てくれた、ありがとう」と歓迎してくれ、「こんなになってしまって…もういいところだなんて言えないけれど、ここがどんなにいいところか何度も通ったおめぇならわかるよな、知ってるよな」との言葉に、ただただ「うんうん」とうなずきながら、涙するばかりだったとのこと。
結城先生のお話を聴きながら、私も涙が溢れてしかたありませんでした。

宮城県石巻市北上町十三浜小指も、津波で船も漁具も失いました。
しかし、震災後の正月、結城先生が訪れた時には、変わらず、海に向かって献膳し、頭を下げる人々の姿がありました。
大晦日に船に大漁旗を掲げ、舳先に松と注連縄を飾り、船の守り神「お船魂(ふなだま)さま」に1年の感謝をささげ、新年の豊漁を願う儀式です。
津波は物理的な破壊をもたらしましたが、人々の中に残る文化や風習、「心」は、流されてなんかいません。
海の人々は、また同じこの場所から、暮らしを始めようとしています……。

結城学校同窓会に向かう新幹線の中で、つらつら考えていたことがありました。
現代はどうして、たとえば米や野菜を作るのが好きで、海が好きで、懸命に仕事して、暮らしていくだけのおカネを稼いで幸せになることが難しい時代になったのでしょうか。
なぜ、普通に真面目に仕事をして誠実に生きようとする人間が、こんなにも生きにくい世の中になってしまったのでしょうか。

おカネ、数字、合理性、経済性という物差しだけで測る資本主義社会、貨幣経済、市場原理主義だからです。
私たちは、そのワナにハマったラットです。終わりのない、出口のない迷路を回り続けることを強いられているように思えてきます。

でも震災後の東北を、日本を復興させるのは、これまでと同じ物差しではないと思っています。
東北の人がいまも持ち続けている、大いなる自然への畏怖の念、その自然とともにもう一度生きようとする謙虚な姿勢と心。
これを、多くの日本人が取り戻すこと、思い出すこと。
日本を救う道は、グローバリゼーションの波に乗ることでも、TPPを利用することでもありません。

現代では、競争が煽られ、勝ち組・負け組と勝手にレッテルを貼られてしまいます。
負け組にならないようにするには、頭を使って人よりもこざかしく、言葉は悪いですが、ズルく生きる術を身につけなければならなくなりました。
言ってみれば、何でも合理的に考えることができて、冷たく、非情な人ほど、成功する確率が上がるわけです。
すでに、アメリカでは、企業の人事担当者が「いい人は要らない」と言っているそうです。
これはアメリカに限らないことだと思います。

最近、そんな今の私の問題意識に呼応したかのような本を読了しました。
マーサ・スタウトの『良心をもたない人たち』(草思社)です。
本書には、良心を持たない「サイコパス」と呼ばれる人たちの事例が出てきて、彼らの被害に遭わないようにする処方について述べられています。しかし、著者の本題はもう1段深いところにありました。

彼女は、25年間、心理セラピストとして多数のトラウマを抱えた患者を治療をしてきました(現在は、ハーバード・メディカル・スクールの精神医学部で心理学講師および臨床インストラクターを務める)。
彼女が本書を書くきっかけとなったのは、9.11後、多くのアメリカ人がショックを受け、意気消沈していた中で友人と交わした会話。並はずれてセンシティブで優しいその友人は事件に圧倒され、気力を失い、電話の向こうでこうつぶやいたと言います。
「ねえ、ときどき考えるんだけど、良心は何のためにあるんだろう。良心があったって、負け組になるだけなのに」

著者がこの本を書いた動機、真意は、「良心は何のためにあるのか?」を解き明かすことにありました。
それはまさに私が抱いていた疑問そのものでもあります。

著者は「良心」をこう定義しています。
「良心とは、他者への感情的愛着にもとづく義務感である」
つまり他者を愛するがゆえ、人間としての義務を感じる、それが良心だと。

また、著者は、「サイコパスは優秀な戦士になれる」とも書いています。
人を殺すことに躊躇しない人間が、戦争では求められます。
本書の中では、『人殺しの心理学』を書いたデイヴ・グロスマン中佐の言葉が引用されています。
「サイコパス、番犬、英雄と呼び名はいろいろだが、彼らは存在する。彼らはまさに限られた少数派だが、危機が訪れると国家は喉から手が出るほど彼らをほしがる」

経済合理主義・成果主義の企業もそうでしょう。
コストカットのために解雇を言い渡すのにも、いちいち情に流されず、表面的にはおだかやにそつなくこなせる、非情な人間のほうが適していると考えるでしょう。

そこで、著者の、そして私の疑問。
「人間にはなぜ良心が備わっているのか?」
利他的な行動は、人間だけでなく、群れで生きる動物にも見られるとして、著者は次のように分析しています。

個体同士が協力しておたがいに世話をしあう群れのほうが、個体同士が競争し無視し合う集団よりも、群れとして存続する可能性が高いのは当然だ。長く残るのは、個体がそれぞれに第一位を目指し、自分以外のものを排除する群れではなく、ある程度統一体として機能する群れだろう。

また、人間は自分の遺伝子を多く残すために血縁を守るでのはないかとも言っています。

たとえば、私が感情的に愛着をもつよう脳にうながされ、いとこたちにやさしい気持ちを抱いて全員に自分の果物を分け与えたなら、私個人の寿命は短くなるかもしれないが、私の遺伝子が何倍にもなって存続しつづける可能性は高くなる。私の遺伝子はいとこの1人1人と、重なる部分があるからだ。

つまりは、人間が群れ=コミュニティを形成して生きる以上、その存続のためには「良心」が必要だったということです。

著者曰く、個人主義を価値の中心に置き、力を求めるものたちの「自分本位」の態度を容認し、奨励さえしてきたアメリカでは、サイコパスの割合が増えているのだそうです。
そして、「興味深いことに、とくに日本と中国では、かなりサイコパシーの割合が低い」とも記しています。
その理由は、「信仰として古来から万物とのあいだの相互関係が重んじられており、この価値観は“きずな”に基づく義務感という、良心の基本とも重なる」からだとか。

昨今の凶悪な事件を見るに、日本社会にも良心のない人たちは増えてきているのかもしれません。
それでも、東日本大震災で日本人が示した他者への思いやりや社会への秩序は、世界が驚き称賛するものでした。

良心とは、いわば、「愛」です。

人は良心がないとけっして本気で愛することはできない。そして義務という命令的感覚から愛を差し引くと、残るのは薄っぺらな第三のもの―――愛とはまったく別の所有欲だ。

サイコパスにとって大事なのは、ゲームに勝つこと。世界でマネーゲームに興じている「成功者」に、良心のない人たちが多いような気がしてなりません。TPPはまさに、彼らに利する仕組みを日本にもl強要しようとしているのであり、良心を大事にする我々は、グローバル経済とは違うところで回る「きずなの経済」を確立する必要があるのではないか。
そのために、私は何ができるか。
私たちの食べ物をつくってくれている人たちに今一度感謝をして、共に手を携えていくいことを考えたいと思っています。

最後に、「良心は母なる自然のよき贈り物だ」と言うマーサの言葉で締めます。

良心を持っていると、あなたは自分の思い通りにできないかもしれない。物質世界で素早い成功をなしとげるために必要なことができないかもしれない。富も名声も手にに入らず、つらい目に遭うかもしれない。でも、良心の欠けたうつろな、危険好きの人たちとちがって、あなたの人生にはほかの人たちといることから生まれる温かさがある。そして、迷いも、激しい怒りも、快さも、喜びも感じることができる。そして良心があれば、愛という最高のリスクを受け入れるチャンスも与えられる。