2011年10月21日

鳴子の米・分かち合い救援米プロジェクト終了

七ヶ浜の慰霊祭.JPG
▲8月20日、宮城県七ヶ浜の慰霊祭で「ゆきむすび」を配布。撮影:高橋一幸さん

「購入したお米は私のところに送らなくて結構です。その分を被災地に寄付します」

3.11の東日本大震災後、米プロ事務局に届いた1枚のFAXから、救援米運動は始まりました(緊急メッセージ:「食べ手」から始める、分かち合い救援米運動)。

FAXの送り主は福岡県在住のAさん。鳴子の米「ゆきむすび」を年間で購入(前払い)し、月々小分けで送ってもらっていたその残りの購入分140キログラムを被災地に寄付したいとの申し出でした。

「これだった......!」
自分のやるべきことを教えられた私は、すぐさま行動に移しました。
まずは自分がAさんに倣い、1口5千円で「ゆきむすび」を購入し(白米10キロ相当)、3月末、米プロ事務局を通じて被災地に送る運動を開始しました。

その後、米プロ事務局から米のつくり手や協力団体への呼びかけも行われ、合わせて約20俵(600キロ)が集まりました(ご協力ありがとうございました!)。

しかし、重要なのはここから先。この20俵(1200キロ)を、いかにして被災地のニーズに適切に応じる形で配送するかでした。

震災直後には、物流の乱れや避難所での仕分け作業の混乱から、十分な物資が送られているにもかかわらず、必要としている被災者にはなかなか届かないという現状がありました。

米プロの上野理事長は言います。
「米プロ以外でも何度か被災地支援に現地に足を運びましたが、その後も被災地の環境は本当にさまざまでした。ですから、どのようにすれば皆さんからお寄せいただいた善意を有意義に被災地・被災者の皆さんに届けられるか、我々も幾度も検討しました

鳴子温泉に2次避難されている皆さんにお届けしようかとも考えました。しかし、3食避難先で確保されている中、さらに米をというのはどうだろうかと。

被災地では、都市部には多くのボランテイアがいる一方で、小さな浜や集落にはボランティアも少なく、なかなか物が届かないといった『支援の格差』のような状況も起きていました。

そこで、米プロでは、日頃お世話になっている小さな集落2か所に的を絞ることにしました。

第1弾は4月19日に『むすびや』*におむすび用の海苔を納入してくださっている宮城県七ヶ浜町の『星海苔店』に救援米をお届けしました」

*米プロのプレゼンテーションの場であり、「ゆきむすび」のアンテナショップとして2009年12月鳴子地区にオープンしたおむすび屋。

その後、米プロチームは、第2弾として8月20日に再び七ヶ浜町へ、そして、救援米運動の締めとして、9月21日、「むすびや」でおむすびの塩を使わせていただいている岩手県野田村に救援米を届けました。

この時、5年前の米プロのスタート時から、総合プロデューサーとしてその本質を説き続けてきた民俗研究家の結城登美雄先生も同行、現地では仮設住宅にお住まいの皆さんとのトーク会が催されました。

会場は、野田村唯一の村立中学グラウンドに建つ仮設住宅群の中の集会所。集まった30人ほどの被災者の方々を前に、まず結城先生から米プロの成り立ちや救援米運動の趣旨について説明。お昼からの開始ということもあり、事前に現地に送ってあった10キロの「ゆきむすび」が炊いて供され、地元の漬物と味噌汁を付きのミニランチで試食しながら、会はなごやかに進みました。

今回米プロチームが持参した「ゆきむすび」は10俵(600キロ)。
会終了後、集まった皆さんに、救援米の内容を記したチラシと共に1軒に3キロ(1キロパックを3袋)ずつが手渡されました。
地元の人や現地にボランティアで入っていた学生たちの手も借りて、トーク会に参加できなかった被災者の方の仮設住宅にも無事「ゆきむすび」が届けられました。

「第1弾後、少し間をあけて、被災地の混乱のおさまった8、9月におじゃまできて、何よりも、『むすびや』でお世話になっている2地域に絞ったことで、被災地の皆さんときちんと向き合い、気持ちを届けることができてよかった」
とは、米プロ理事の1人、「山ふところの宿 みやま」オーナーの板垣さん。

「七ヶ浜の海苔屋さんも、野田村の塩も、我々にとって単なる取引相手じゃないからね。"見える"関係を大切にしてきたから」

鳴子から朝5時に車で出発、4時間かけて到着した野田村で米プロチームが見たのは、震災から半年が経過したというのに復興とは程遠い村の姿でした。

いま、復興事業を担う業界にとってはちょっとした"震災特需"。
震災直後から、大手シンクタンクが被災自治体に大々的な売り込みを行い、ある県の復興計画はその会社が請け負っている、あるいは、ある県の復興会議のメンバーの過半が東京の著名人だという実態......。

「大事なのは、現場の声。復興会議が盛り上がったってしょうがないんですよ」(結城先生)

各地の復興計画策定には続々と有名建築家が起用されているそうです。
でも、地元にだって、優秀な建築家や設計士、建設業者、大工さんたちが大勢います。

本来、まちづくり計画は住民が主体となってつくるもの。 
住民が置き去りにされているという声がいくつも聞こえてきます。

「我々が始めた鳴子の米プロジェクトは、米をつくって売る運動ではない。今のような状況だからこそ、足元から、海、山、里で手をつないで、関係を強くしていかないと」(板垣さん)

2006年春にスタートした、米のつくり手と食べ手が信頼でつながり、食べること、共に生きるための食=米について考えようという鳴子の米プロジェクトは、5年の間にあちこちで共感を呼び、各地でその地域の米プロが生まれています。

3.11の大地震と津波で、我々は、東北地方沿岸部の漁場と穀倉地帯という、「生きるための食」の産地の多くを失いました。そこに、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が、追い打ちをかけています。

東京電力や国の補償は一時的なもの、そこに「心」はありません。
「心」、「気持ち」のある全国の食べ手が、あるいはつくり手同士が、被災地のつくり手たちが来年も農林水産業を営むことができるよう支える......。

日本の食が危機に瀕している今、米プロが提示してきた、食べ手とつくり手との強固な「命綱」を、いかにして全国に広げていくことができるか。
ぐずぐずしている暇はありません。
今秋、鳴子からその一歩を踏み出したいと考えています。