2011年3月28日

助け合って、支え合って、分かち合って

3.11に勃発した東日本大震災は、私たちから多くの命と財産、文化までをも奪っていきました。
幸い、私自身はケガもなく無事でしたが、その後テレビから流れる映像に言葉を失いました。津波が舐めるように東北地方沿岸部を飲み込み、自治体が丸ごと流され消えていました。

すぐに、東北、特に宮城県の友人たちのことを思いました。この「いちぐう」でも紹介しています、宮城県大崎市鳴子地区(「鳴子の米プロジェクト」として幾度か紹介)の「山ふところの宿みやま」のオーナー・板垣さんとは少し経ってから連絡がつき、板垣さんやその日取材で「みやま」を訪れておられた結城登美雄先生の無事も確認され、一安心。
しかし、沿岸部の友人たちの安否は不明なまま、津波に飲まれた町の映像を見ては絶望的な気持ちなって、さめざめと泣く日々が続きました。

しばらくして、ようやく、消息が不明だった友人たちの無事が次々と確認されたときは、本当にうれしかった!
壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町(旧志津川町)の三浦さき子さんと電話がつながった時は、もう涙、涙でした......。

その喜びもつかの間、すぐに収束するだろうと思われていた福島第一原子力発電所の事故が予想以上に深刻な事態であることがわかるにつれ、不安が膨らんでいきました。
水処理場から放射性物質が検出された時から、首都圏の店頭から水が消えました。
被災地ではない首都圏の地域で、放射能汚染への恐怖から、買いだめが起こっています。

一方で、夜は凍える寒さの避難所の不便な暮らしの中でも「ありがたい」、「ありがとうございます」と感謝しながら涙を流す被災者の皆さんの姿に、震災直後、少ない食料を分け合って助け合って支え合っておられる被災者の皆さんの姿に、どれだけの人間が励まされ温かい思いになったことでしょう。
本来であれば、被災者を支援するべき立場の非被災者の私たちが、苦難の中で懸命に生きようとされる被災者の皆さんに何が本当に大切だったのかを教えられたような気がします。

全国から、あるいは世界から支援の手が差し伸べられ、「そばにいるよ」という優しい愛の気持ちが伝えられたことにも感動しましたし、自分の家族の消息も不明のまま、また原発事故の被ばくの危険を顧みずに他人のために責務を全うしようとする人々に勇気をいただきました。

3.11の震災前と後では、世の中、そして私たちの暮らしは、大きく変わりました。これまでを猛省して、オルタナティブな道を歩き、次世代に少しでもツケを回さない社会をつくらなければなりません。それが私たち大人の「仕事」です。
人間が本来持っている他人を思いやる気持ちや支え合い・団結が、これを機会に大きなうねりとなって、復興が新しい日本社会創造につながるよう、私も自分にできることを地道にやっていきたいと思っています。

その1つ、小さな運動を始めました。
鳴子の米プロ・分かち合い救援米プロジェクトです
http://www.ichigu-doc.jp/post-1.html
賛同いただける方は、ぜひ、ご協力よろしくお願いいたします。また、情報拡散も大歓迎です!