2010年5月22日

地域の力とは~鳴子の米プロの実践に思うこと~

大変長らくお待たせしてすみません。
鳴子の地域力実践フォーラム所感です。
まずは、開催から3カ月が経とうする今になってアップする失礼を、関係者の皆さま、どうかどうかお許しくださいませ(汗)。

人が何を幸せと感じるかは百人百様かもしれませんが、地域の幸せのイメージは、“将来、次世代が安心して暮らせるまち”。そのためには彼らが働ける場が必要であり、それには地域が経済力をつけなければなりません。要はいかにして地域内におカネが回る仕組みをつくるかが大事になります。
となると、まずは目的に向かって具体的な目標を定め、次に商品を売る顧客(ターゲット)を決めて、さまざまな関係者をコーディネートして、場をプロデュースし て……(ううっ…なんと横文字の多いこと!)と、当然、マーケティングの王道で勝負することになります、と言われそうですが、ビジネスの基本を押さえる点は理解できるのですが、全ての場合がそうでなければならないのか? 私はなんだかしっくりこないもやもやしたものを感じてしまっているのです。
それが何なのかを、鳴子のフォーラムから見えてきたことを中心に考えてみたいと思います。

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▲フォーラムの様子(以下、撮影は全て安部祐輝さん)

鳴子の地域力実践フォーラムは、2月27日(土)鳴子観光ホテルにて開催されました。地域で支える米づくり「鳴子の米プロジェクト」がスタートして5年。「ゆきむすび」という山間部に強い品種をシンボルに、この冷めてもおいしい低アミロースの米を、単に消費地に高く売るのでなく、まずは地域の使い手(宿や飲食店)が、そして鳴子の米プロを理解し信頼で結びついた人が購入してつくり手を支えようというもの。かつての生協運動やアメリカ版地産地消運動であるCSA(Community Supported Agriculture)と同じようですが、、鳴子の米プロの場合は、そこにその道の一流の職人、手仕事師が加わり、地域が持つ「命の源、基本食糧である米が培ってきた暮らしの豊かさ、美しさ、楽しさ」が見事に引き出され、参画するほどにおもしろくなりのめり込んでしまう不思議な魅力を備えているのです。
※鳴子の米プロのこれまでの経緯など詳細は下記のサイトで。
http://www.city.osaki.miyagi.jp/annai/kome_project/index.html

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フォーラムはその第2ステージへ向けた一つの区切りの意味合いがありました。
前夜は今回の“本番”懇親会。私は残念ながら間に合わず2次会からなだれ込んだのですが、その後、私の鳴子の定宿「山ふところの宿 みやま」(板垣さん、いつもありがとうございます…!)で、明日のフォーラムのディスカッションで対談予定の鳴子の米プロの総合プロデューサーであり米プロの精神的支えである結城登美雄先生(民俗研究家)と、農文協の「増刊現代農業」編集主幹の甲斐良治さんに加え、みやまオーナーの板垣幸寿さん、鳴子のキーマン・大崎市役所職員の安部祐輝さんらと打ち合わせという名の飲み会。久しぶりに結城節を伺うことができて、また酔ってすぐに寝てしまう…と思いきや、結城先生の話に反応していきなりしゃべりだす甲斐さんのお人柄の一端を垣間見て、楽しいひとときでした。
宴は午前2時頃まで続き、そして翌日本番へ。
当然のことながら、主役のお2人、特に結城先生はばっちりお酒が残ってます。

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▲結城先生(左)と甲斐さん。

しかし、フォーラムが始まると、二日酔いなんてどこ吹く風。予想通り、私のコーディネートは不要でした。お2人にテーマを振れば、いつも通りの、そしてさらに深い本質論が展開され、参加者一同、聞き入りうなずくことしきり。
その後は甲斐さんからの提案もあって、できるだけ若い人の声を会場から拾いました。

意図してそうなったわけではなく、結果として若者コメントの最後を飾ったのは、NPO法人鳴子の米プロジェクトの理事長・上野健夫さんの息子さん(滝人さん)。彼の一言に会場のオトナたちはグッときました。
「オヤジを見ていて農業ってカッコイイと思った」

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▲上野滝人さん(岩手大学農学部の学生)。

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▲上野健夫理事長。息子さんの後のコメントになんだか照れくさそうです……。

鳴子が多くの若者たちを引き付けるのはなぜなのか。
食べ手の思いにこたえようと、待ってくれる人たちのために誠意をつくそうと、ただただ懸命に米づくりに励む農業者。そして単にその米を買うだけでなく、米という作物をつくり手の「心」があたたかく伝わる「ごはん」にして提供したり、自らも器とのコーディネートを楽しんだり、自然のものから器を作ってみたりとさまざまな立場の人たちが加わってその輪がどんどん広がっている……それが鳴子の米プロ。

今回、鳴子の米プロの取組みが総務省の地域づくり総務大臣賞を受賞しました(フォーラムは、その記念の会でもあったのです)。多くの地域や団体が大崎市鳴子地区に視察に訪れ、鳴子に学ぼうとしています。鳴子の米プロを優良事例として取り上げる調査報告書も数多くあります。ただ、「同じことを他でやろうとしてもなかなかできない」との声も耳にします。もちろん、手法は違えど、すでに鳴子同様に独自に地域として自立して取り組んでいるところもあります。

ただし、誰でも真似できることじゃない(つまり、システム化、平準化できない)と言われるゆえんが、一見すると属人的であること。結城先生という類まれなプロデューサー、地域の人びとのために奔走する真の行政マン安部さん、そして、若い安部さんを支える板垣さんら地域の宿のオーナーの存在。これらの条件が揃って初めてできることであると。その主張に異論はありません。
しかしながら、「うちの町には安部さんタイプの人間がいないから」ではなく、どのまち・むらにも安部さんになれる人はいます。
鳴子の米プロのキャッチフレーズは“あきらめない米づくり”。諦めていないから、諦めずに進む人たちがいる。彼らが特別なことをしているわけではなく、やるべきことをしているだけ。

フォーラム終了後、結城先生は私に言われました。
「僕は当たり前のことを言ってるだけ。鳴子のみんながあたり前のことをしているだけ。やろうと思えばどこでもできる。やろうとしないだけ。違いますか?」

鳴子のケースの最大の特徴は、参画する人々が皆自発的に「自分も何かがしたくて」動いていおり、このプロジェクトを通して、他人の役に立つことを喜びと感じて、かかわった人同士の絆が強まっていくダイナミズムを生んでいることだと私は思います。
だから、安部さんの言う、普通ならば、「(どうせできっこない)あり得ないこと」を可能にしてしまう地域の力が生まれているのです。

鳴子の米プロにかかわっている人たちは、日本農業の将来を考えて行動しているわけではありません。日本の食の自給率を上げるために行動しているわけではありません。そんな大上段に構えた話でなく、自分の家族や隣人、愛する人、大事な人たちのために行動しているのです。

「額でものを見る農家の顔を上げさせたかった…」
鳴子の米プロ始めるきっかけを、結城先生はそうおっしゃいました。
「地元学は、隣人のためにあるものだ」とも。
そして、先生にとっては、農業を営む息子さんのための米プロの歩みなのではないか、そんな気もします。
以前、息子さんの農業を手伝ったときに感じた「食べ物がなんでこんなに安いのか?」という疑問、空しさ、悔しさが、結城先生を突き動かしているように思えます。鳴子の米プロは、現場の現実の中から生まれ、進化し、深化していっているのです。

「賞をもらって、あるいは記念フォーラムに有名人を呼ぶ、そんなことで浮かれてどうするんですか。鳴子はこれから。今が一番大事な時ですよ」(結城先生)
※私の記憶の中ではこのようなコメント。正確ではありませんがお許しください。無名だけれども鳴子の米プロの理解者として私を対談のコーディネーターとして指名してくださった結城先生、本当にありがとうございます。

鳴子の米プロにも紆余曲折がありました。最初から足並み揃ってスムーズに進んできたわけではありません(地域の問題なので、私がここで内部事情に言及するのは避けます)。
「ていねいに、ていねいに」。鳴子の米プロスタート時からの結城先生の口癖でした。
拡散せずにていねいに一つずつ事を起こしてきた結果、鳴子の米プロは、今や米のつくり手と買い手・使い手・食べ手という関係性を超えて、米という食文化に大勢がかかわる大プロジェクトに成長しました。

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▲会場に展示されていたおむすび。器の材料は鳴子の樹。鳴子在住の最高の漆職人・小野寺公夫さんが漆を塗った。

鳴子の米プロに、「食べる、買う(あるいは使う)」ということで参画すれば、つくり手の誰かを支えているという実感が持てる。それは、生産者の手紙入り商品とか携帯にアクセスすると生産者のコメントが表示されるとか、そうした小手先のものに喚起される感情でなく、もっとじんわりお腹の底から湧きあがってくるような思い。平たいベタな言葉でしか表現できない自分が情けないですが、そこにあるのは、「愛」だと思います。食べ物、人への本物の愛があるか否か。伝わるんです、伝染するんです、人から人へ。

私はフォーラムの最後に言いました。
「地域をよくするために、他人のために動ける人が何人いるかが地域の力を決めるのではないでしょうか」

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▲おむすび展示の上段真ん中は、鳴子の米プロ初のおむすび屋、ゆきむすびを供する「むすび屋」の小昼らんち(600円)。

冒頭に戻ってビジネスの話。
最近では「匂い(香り)ビジネス」なるものが隆盛らしく、売場に人工の匂いを流すことで商品の売上をアップさせるのだとか。農産物の直売イベントなどでも、おいしそうな匂いは集客効果抜群です。ただし、それはホンモノの食べ物の匂いです。昨今の匂いビジネスは店や企業に依頼されて人工的な香りを調合して、それを流すというもの。先日のNHKの番組『クローズアップ現代』では、小学生たちが自然のチューリップやイチゴの匂いを無臭もしくは変な匂いと感じ、人工のそれらを「いい匂い!」「こっちのほうがおいしそう!」と支持する姿が映し出されており、やっぱりの感。自然の香りはさまざまな要素が複雑且つ見事なバランスで存在しているのに対し、人工の香りはある特定の要素だけを取り出し強調させています。
確かに、匂いというのは脳にダイレクトに響き感情を揺さぶる(ある匂いをかぐとその記憶が一瞬にしてよみがえるような)と言いますから、衝動買いを目論む側としてはしめたものです。
でも、なんかおかしくないですか?

最近ではまた、マーケティングも様変わりしてきているようです。これまでのようにアンケートやグループインタビューに頼るのではなく、消費ターゲットとなる層の被験者にCMを見せてその脳波を測定し、どのCMに、あるいはCMのどの場面に最も反応するかを調べてより直接消費行動に結び付くCMを流すという手法が開発されました。日本でも某広告代理店がすでに実験を始めているそうです。
売る側にしてみれば、画期的なことでしょう。けれども、買う側からすれば、頭の中まで操作されて、モノを買わされてしまうなんて気持ち悪いというか恐ろしい!
いや、我々の生活の中ではすでにどこかでサブリミナル効果などが使われていて、知らぬ間に「買わされている」ことが多々あるのかもしれませんが。

経済活性化=消費行動が活発に行われることだからと、大量生産・大量消費の使い捨て文化そのままに、新たな商品が作られ、飽くなき消費が繰り返される……。私の疑問はそこにあります。それで人は幸せになれるのか?
先の鳴子の実践は、「マーケット」でなく、「つながる個人」を見て経済行為を行うことへの挑戦であり、信頼と感謝で地域の経済が潤うことが立証された例ではないかと思います。新しい地域活性化、というより経済の在り方をも示唆していると思うのです。

ごくまっとうに、他人の役に立つことを喜びとして、地域の人がそしてそれをとりまく支える人たちが信頼で結び合い、経済行為が成立していく。鳴子では、人間っていいなぁとしみじみ思う場面にいくつも出会います。
人間、まだまだ捨てたもんじゃない! そう思える力をくれる地域だから、若者を、多くの人を引き付けるのだと思います。

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▲鳴子の米プロジェクトのシンボル品種「ゆきむすび」で作ったお弁当。仙台の弁当業者が開発した。