2009年5月 8日

美しい村、山岳集落東祖谷Part1

ちいおり.JPG

雑記帳第2弾は、四国は徳島県の山岳地帯にある山村、東祖谷村(現・三好市)です。
ずっと行きたいと願っていた村。
さまざまなご縁が重なりあって、点と点がつながって、線になりました。

さかのぼること4、5年前。始まりは、愛媛の農家Mさんから「永田さん、この本読んで!」という突然の電話。
薦められたのは、アメリカ人の東洋文化研究家、アレックス・カーさんの著書『犬と鬼』でした。
すぐに書店へ走って買い求め、読み始めたら止まらない……。
日本社会や日本人に対して抱いていたもやもやしていた霧がさーっと晴れていくような気持ちよさ。
鋭い視点と深い洞察力に痛く感銘し、「この人に取材したい!」と、出版社に電話を。
そして辿り辿って、ついに京都の亀岡市のアレックスさんのご自宅で取材が実現したのがMさんの電話から数カ月後。
以来、新潮学芸賞受賞作の『美しき日本の残像』に出てくるアレックスさんの最初の住まい「ちいおり」のある東祖谷(ひがしいや)にいつか行ってみたいと思っていました。
上の写真がその「ちいおり」です。
1970年代、日本各地を歩き、「日本で一番美しい村」だとアレックスさんが惚れ込んだのが東祖谷村。
なんとかこの美しい風景・文化を守りたいと自ら購入した茅葺き民家です。
ちいおりの「ち」という難しい漢字は竹の笛を、「いおり(庵)」は草屋根の家を意味し、アレックスさん自身が笛を吹かれることから、「笛の家」を表す名前なのだそうです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、実はさらに点がつながって新たな線を描いて……
話を少し戻します。
取材当時、アレックスさんは「僕は今度、京都で町家を改修して観光客に宿を提供している『株式会社庵』の会長になりました。これを農山漁村で広げていきたい。空古民家がいっぱいあるでしょう。それを使って新しい農山漁村のツーリズムを産業を興したいんです」と言われていました。
その数年後、ある会合でご一緒した女性が「庵」の社長・梶浦さんと国交省の委員会でご一緒されていることがわかり、さっそく梶浦さんにメール。すると、なんと数日後には当時私が勤務していた財団の事務所に訪ねて来てくださったのです。
以来、梶浦さんとはさまざまな場面でご一緒することになり、東祖谷におじゃましたきっかけも梶浦さんからのお誘いでした。
うれしいことに、2度も!
まずは初回の訪問から……。

ちいおり看板.JPG
▲「ちいおり」の看板。

11月下旬、内閣府の「地方の元気再生事業」による実験ツアーのモニター兼アドバイザーとして東祖谷に入りました。
あいにくの雨の中、飛行機で高知空港まで向かい、その先は迎え車で約2時間の道のり。
「ちいおり」は実験ツアーの拠点でした。
ツアー参加者は、私を含め、5人。
さっそく何社かのテレビのクルーが取材開始。

これから2日間、体験プログラムに参加します。
私が選んだのは、初日は「平家落人伝説ツアー」、2日目は藁草履(わらぞうり)作り体験。
実は、2日目、指定された帰りの飛行機が万席で予約が取れず、仕方なくその1便前にしたために、参加したかった「里山歩き」に替わって藁草履作りに。
「藁草履作り体験って、小学生ならまだしも。あーあ」
これが最初、正直な私の気持ちでした。
ところが……っとその体験はまた後ほど。

説明する梶浦さん.JPG

写真は、開会の挨拶中の梶浦さんです。庵の唯一の暖房設備「いろり」の煙で霞んでいい男が台無しですが、梶浦さん、どうかご容赦を! そうなんです。囲炉裏の日で暖をとるだけのちいおりは下は板張り、晩秋のそぼ降る雨の中、とにかく寒かった……。


▼ちいおりの縁側の軒下から見た風景。こちらは雨に煙っています。
ちいおり軒下.JPG

このあと体験に入るのですが、ちいおりに着いてすぐ、私の胸の名札を見て、「永田さん、こっちへ来てどうぞ」ときさくに囲炉裏端へさそってくださった女性が、私の選んだ体験プログラム「平家落人伝ツアー」の担当の上栗(うわぐり)さんでした。
この出会い、ちょっと不思議な気がしました。
「平家落人伝説ツアー」は、ボランティアでガイドをされている住民グループ「コミュニティ祖谷」の皆さん(リーダーの中石さん、上栗さん、吉田さん)の楽しいおしゃべりで過ごす時間となり、移動の車の中では笑いが絶えず、大いに盛り上がりました。
「この道をね、8歳の安徳天皇が歩いて行かれたんですよ。小さい体でね。どれだけ寒かったろうか、どれだけ辛かったろうかと思うと涙が出てくるんですよ」
壇の浦で入水したとされる安徳天皇は、実は先に逃げのびていた平国盛に迎えられ、ここ東祖谷に住んだとされています。
情感たっぷりの案内に、思わず、私も感情移入してしまいます。
確かに、平家落人が身を隠すには適した急峻で険しい山岳の村です。
移り住んだ平家は阿佐姓を名乗るのようになり、国盛直系の子孫と言われる阿佐家には、2枚の平家の軍旗である「赤旗」と刀が残されているそうです。

さて、ツアーからちいおりへ戻り、体験プログラムごとに班に分かれてワークショップ。
模造紙に、東祖谷について感じたことなどを書いたポストイットを貼っていきます。
私は思いつくまま、感じたままいろいろ書いて……正直、何を書いたのか
もう忘れてしまったのですが、すると上栗さんらが、「うわぁ、そんなにまで言ってもらって」「ああ、ホントにうれしい」「やってよかった」と涙を流して感激されたのです。
意外な反応にびっくりすると同時に、その涙を見て、思わずもらい泣きする私。
「こんな形で人をお迎えして案内したことなんて今までなかったんで、前日までどうしようか、こんなんでいいだろうかって悩んだんです。でもそう言ってもらってホントによかったー。でもね、私は一番うれしかったのは、朝、ここへ来たとき、永田さんが囲炉裏端に座って、私の囲炉裏を使った昔の暮らしのことを一生懸命、熱心に聴いてくださったでしょ。あれがうれしかったー」
私と上栗さんらの心が通い合った瞬間でした。

心からの率直で素直な言葉は、直接心に響く。
心が触れ合うというはこのことなのだと改めて強く思いました。

翌朝は、藁草履作り体験でした。

わらじ作り先生の手.JPG

で、これが件の藁草履作り体験(草鞋は初心者には難しく、だから「藁草履」なのです)。
写真は、藁草履作り体験の先生である地元民・尾茂(おも)さんの手許。見事な藁さばき(?)とでもいうべき手わざです。
草履も草鞋もこの藁を編んで縄を作るこの最初の作業が基本。ところが、これが一番難しくて、先生のようにシュッシュッ、シュルシュルと編めないのです。ちいおりの板間に陣取った参加者の輪のあちこちから、「できない」「むずかし~」の声。
初めこそ「子どもの体験プログラムでしょ」と思っていた私でしたが、だんだんおもしろくなってきました。
というのも、みんな下手なので、下手同士励ましあってやれる!
大の大人たちが必至で夢中になって藁と格闘する姿は案外いいものです。

わらじづくり足.JPG

私はこの「縄づくり」はだいぶ先生のお世話になって(手が滑ってゆるゆるの縄になり、見てられなくなった先生が、「はい、これで作りなさい」とササッと編んでくれた縄をくださった!)、他の皆さんによりも早めの出立までに小さな草履を片方だけ編み上げました。
まるで子どもの草履です。
でも、自分で作ったらなんか愛おしいものですね。
大人が楽しめるプログラムか否か。この実験ツアーで検証すべきテーマでもありました。
藁草履作り、意外と楽しめますよ。

このあと、私は急ぎ、呼んでいただいたタクシーに乗り込み、最寄駅の大歩危(おおぼけ)駅へ。
駅までの約40分間、私はまた忘れられない体験をすることになりました。
タクシーの運転手さん・小谷さんがいろいろ話してくださいました。
真冬は零下になることも多く、雪と氷の村には村人の足としてタクシーが欠かせないのだとか。
「年寄は危なくて運転できないし、雪の中外へ出たら帰ることができなきなくなるんです。だから、朝から出かけるときは、電話せーよと言うとるんです」
つまり、出かけたい日は、朝タクシーの運転手さんに電話して帰りの「足」を確保してからにしなさいということのよう。
傾斜ばかりの村は凍るとつるつるの世界になります。
小谷さんは何度も命を落としかけたそうです。
雪道で車が制御不能になったときには、車を捨てて飛び出すのが鉄則。
「幸い僕は車をつぶすようなことはしてないけど、同僚にはいますよ、何人も。僕も、90度車が回転したり、登り坂で車が進まなくなって、そのまま後ろへずるずると…。あのときは、片足でアクセルを踏みつつ、暖房を入れてると車の下の雪が溶けてまた滑り出すので暖房も切って。無線だけは通じたので、応援が来るまで2時間ですよ。絶えましたよ」
なぜそこまでして危険な冬季の運転を続けるのか?
「パチンコの好きなじいちゃんがいてね。10時になると駅から電話かかってくるんですよ。『迎えに来てくれるか?』と。そうするとね、やっぱり行ってあげたくなるんですよね。どんなに危険だとわかっていても、年寄から電話があるとね。だって、僕らがいなかったら、困るんですから」
山間の雪深い村では、タクシーはお年寄たちの命綱、ライフライン。
小谷さんの話に私は聴き入りました。
駅に着き、小谷にさんに「すてきなお話をありがとうございました」とお礼を言うと、「これ、記念です」と、タクシー会社の名入りのボールペンをいただきました。そして名刺を交換しました。

▼大歩危駅。

大歩危駅.jpg

小谷さんの車をお送りしようと思い、駅のベンチで回ってくる車を待ちました。
でも、小谷さんは駅のロータリーに車を止めて、同僚とおしゃべりされています。
カメラを大荷物の奥にしまいこんでしまっていた私は、小谷さんのもとへ走り、携帯で写真を撮らせていただきました。

タクシーの運転手小谷さん(横).jpg

やがて電車が到着、乗り込みました。
駅舎側の窓際の席に座り、何気に外を眺めると、線路の向こうに小谷さんの姿が。

深々と頭を下げ、そして大きく手を振ってくださっているではありませんか。
瞬間、熱いものが込み上げてきました。涙があとからあとからあふれてきました。
裏表も駆け引きも競争もない。
あるのは、相手に対する深く温かい思いやりだけ。
それを自然と態度で表すことができる、そんな人たちのいる東祖谷というところに私はすっかり惚れ込んでしまいました。
「祖谷の自然は特別。人も特別」
アレックスさんの言葉が胸に沁み込みました。
厳しく険しい自然環境のために長く外界から閉ざされてきたからこそ、大切なものが残ってきた。
失ってはいけないもの、それが東祖谷にあります。

完成させた片方だけの藁草履。部屋に飾っています。
なぜならば、それが私と東祖谷の皆さんと触れ合った、東祖谷で過ごしたことの証だからです。

藁草履.jpg

その場の景色や食に出会った「人」たちとの交流体験があって初めて、旅が個人の大切な思い出、宝ものになるのだと思います。  (Part2へつづく)